ラ・ボエシ
モンテーニュの友人
フレデリック・ロルドンも『なぜ私たちは、喜んで〝資本主義の奴隷〟になるのか』の冒頭でラ・ボエシを援用している。
1552『自発的隷従論』(引用)
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民衆の可笑しさ
本書籍は「多数者が一者に隷従する不思議」という疑問より始まる。それは反ホッブズを
仮に、二人が、三人が、あるいは四人が、ひとりを相手にして勝てなかったとしても、それはおかしなことではあれ、まだありうることだろう。その場合は、気概が足りなかったからだと言うことができる。だが、百人が、千人が、ひとりの者のなすがままじっと我慢しているようなとき、それは、彼らがその者をやっつける勇気がないのではなく、やっつけることを望んでいないからだと言えまいか。臆病によるのではなく、むしろ相手を見くびっているから、嘲っているからだと言えまいか。また、百人の、千人の人間ではなく、百の国、千の町、百万の人が、その全員のなかでもっとも優遇されている者にすらも隷従と奴隷の扱いを強いているたったひとりの相手に襲いかからないのを目にした場合、われわれはそれをなんと形容すればよいだろう。これを臆病と言えるだろうか。そもそも、自然によって、いかなる悪徳にも超えることのできないなんらかの限界が定められている。二人の者がひとりを恐れることはあろうし、十人集まってもそういうことがありうる。だが、百万の人間、千の町の住民が、ひとりの人間から身を守らないような場合、それは臆病とは言えない。そんな極端な臆病など決してありえない。それは、たったひとりの人間が城塞をよじ登り、軍隊を殲滅し、国家を征服するほどの勇敢さをもっているはずがないのと同様だ。では、これはどれほど異様な悪徳だろうか。臆病と呼ばれるにも値せず、それにふさわしい卑しい名が見あたらない悪徳、自然がそんなものを作った覚えはないと言い、ことばが名づけるのを拒むような悪徳とは。
人々が隷従を求め、他者に自らが生を預けんとするその仮説は当然として受け入れ難い。我々人類は歴史的に解放のヒロイズムに浸っており、それを善と崇め、巣立ってきてた。革命とは絶えず解放へのヒロイズムに支えられ、支配者としての君主や資本家を悪き敵とみなしてきた。それはラ・ボエシの時代にも変わらない。
一方に武装した五万人、他方にも同じだけの人数を置いてみよう。そして、会戦させてみよう。一方はみずからの自立を守るために戦う自由な軍であり、他方はその自立を妨げようとする軍である。どちらが勝利を収めると推測できるだろうか。苦しみの代償としてみずからの自由の維持を望む人々と、攻撃を与えたり受けたりすることの代価として他者の隷従しか期待できない人々の、どちらがより勇敢に戦いに赴くと考えられるだろうか。 前者には、いつも目の前に過去の生活の幸福と、未来にも同様の安楽が続くことへの期待がある。心を占めているのは、戦いが続く間みずからが耐えるべき些細なことがらよりもむしろ、彼らとその子どもたちが子々孫々永遠に耐え忍ばねばならないことがらである。それに対して後者には、みずからを奮い立たせるものとしては、ほんの少しの欲望のほかにはなにもない。そんな欲望は、危険に際してすぐに萎えてしまうものであり、傷口からたった一滴でも血が流れるや、すぐに消え去ってしまうほど冷めやすいものであろう。 かつて、ミルティアデス、レオニダス、テミストクレスらのいとも誉れ高い戦闘があった。二千年も前に生じたものだが、つい先日の出来事であるかのように、今日なお書物と人々の記憶のうちに鮮やかである。戦いはギリシア人の益を守るためにギリシアで起こり、世のすべての人々の模範となった。この戦いにおいて、当時のギリシア人のような数に劣った人々に、力ではなく、勇気を与えたのはなんであったと思われるか。その勇気たるや、海をも埋めつくさんばかりの強力な大艦隊に抗し、大隊の隊長の数が自軍の中隊の兵員数をしのぐほど多くの民を擁する国を、うち破ったのである。かくも栄光に満ちた日々のなかで、これほどの勇気をもたらしたのは、ペルシア人に対するギリシア人の戦いというよりむしろ、支配に対する自由の、征服欲に対する自立への欲求の勝利であったと考えられまいか。
しかし現実はこれと異なる。ボエシは「ひとりの者が十万の人々を虐待し、その自由を奪うなどということが、あらゆる国々で、あらゆる人々の身の上に、毎日生じている」としたが、現代も同様と云える。君主の世俗化あるいはバリュエーションとも呼べる資本家-労働者の関係は、マルクスが示したように王-民に次ぐ新たなる主奴の図式に他ならない(詳しくは"資本家はアトラスか、それともマモンか"を参照されたい)。しかし、未だ我々の人類は資本家への隷属を選ぶ。またニーチェにしてみれば、キリスト教徒も同様と云うことだろう。神に仕え、自らをあけわたす弱き態度は君主と資本家に仕えるそれと等しい、ニーチェはこう蔑視するに違いない。ただ、現代資本主義における現状は、君主におけるこれとは違うかもしれない。しかし、上記に示したが如く自発的隷従とは歴史に普遍的な現象なのである。ボエシはその可笑しさを次のように叙述する。
ましてや、このただひとりの圧政者には、立ち向かう必要はなく、うち負かす必要もない。国民が隷従に合意しないかぎり、その者はみずから破滅するのだ。なにかを奪う必要などない、ただなにも与えなければよい。国民が自分たちのためになにかをなすという手間も不要だ。ただ自分のためにならないことをしないだけでよいのだ。したがって、民衆自身が、抑圧されるがままになっているどころか、あえてみずからを抑圧させているのである。彼らは隷従をやめるだけで解放されるはずだ。みずから隷従し喉を抉らせているのも、隷従か自由かを選択する権利をもちながら、自由を放棄してあえて軛につながれているのも、みずからの悲惨な境遇を受けいれるどころか、進んでそれを求めているのも、みな民衆自身なのである。 そもそも、彼らが自由を取りもどすのになにかを支払う必要があるのなら、私もあえてやかましくそうしろとは言わない。しかるに、人間がみずからの自然権(12)を取りもどし、いうなれば、獣の状態から人間の状態へと立ちもどること以上に大切なことがあるだろうか。だが、それでも私は、彼ら民衆がそれほどたいそうな勇敢さをもつことを望んでいるわけではない。安楽に生きたいという当てにもならぬ希望よりも、みじめな境遇でありながらもともかく生きられるという保証──それがどんなものかは知らないが──を好むというならば、それでよい。 それにしても、なんということか。自由を得るためにはただそれを欲しさえすればよいのに、その意志があるだけでよいのに、世のなかには、それでもなお高くつきすぎると考える国民が存在するとは! 彼らは、ただ願うだけで自由を得ることができるのに、その財を取りもどすための意志を出し惜しんでいる。その財たるや、みずからの血を代償にしても贖う必要のあるものなのに。それが失われれば、廉恥の士ならばだれでも、もはや生を耐えがたく思い、喜んで死を遂げようと考えるものなのに。(...)そんなふうにあなたがたを支配しているその敵には、目が二つ、腕は二本、からだはひとつしかない。数かぎりない町のなかで、もっとも弱々しい者がもつものとまったく変わらない。その敵がもつ特権はと言えば、自分を滅ぼすことができるように、あなたがた自身が彼に授けたものにほかならないのだ。あなたがたを監視するに足る多くの目を、あなたがたが与えないかぎり、敵はどこから得ることができただろうか。あなたがたを打ち据えるあまたの手を、あなたがたから奪わねば、敵はどのようにして得たのか。あなたがたが住む町を踏みにじる足が、あなたがたのものでないとすれば、敵はどこから得たのだろうか。敵があなたがたにおよぼす権力は、あなたがたによる以外、いかにして手に入れられるというのか。あなたがたが共謀せぬかぎり、いかにして敵は、あえてあなたがたを打ちのめそうとするだろうか。あなたがたが、自分からものを奪い去る盗人をかくまわなければ、自分を殺す者の共犯者とならなければ、自分自身を裏切る者とならなければ、敵はいったいなにができるというのか。