ブルトン
1920『ジョルジョ・デ・キリコ』
ひとは古代世界の七不思議について不完全な妄想を抱いている。今日では幾人かの賢者たち、すなわちロートレアモンやアポリネールが、こうもり傘やミシンやシルクハットを、万人の驚きのために捧げた。不可解なことは何もなく、また必要なら一切が象徴の役割を果たしうるとの確信をもって、わたしたちは想像力の富を消費する。女の顔をもつ獅子としてスフィンクスを思い描くことは、かつては詩的であった。真の現代の神話が形成されつつあるとわたしは考えている。ジョルジオ・デ・キリコこそは、〔現代の神話〕を永続的に記憶にとどめるにふさわしい
1924『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』
もっとも単純なシュルレアリスト的行為は拳銃を手にして街頭におり立ち、できる限りあてずっぽうに、群集に向かってぶっ放すことである
1928『シュルレアリスムと絵画』
模倣から創造、外在から内在へ
造形作品は、したがって、こんにちあらゆる精神が一致してもとめている現実的諸価値の徹底的な再検討の必要にこたえるために、純粋に内的なモデルをよりどころにするだろう、それ以外にはないだろう。あとはこの内的なモデルが何を意味しうるかを知らなければならない。(...)私たちの眼、私たちのいとしい眼は、存在しない何かを、だが存在するものとおなじ密度をもった何かを映しだす必要があったし、また、そこに新しく本物の視覚的イメージが生まれて、何であれすでに捨てたものを惜しがったりはしないようにさせる必要があった。(...)ピカソが自力でこの道を調べまわり、光にあふれた両手をはるか遠くへさしのべたときから、もう十五年になる。
それはプラトン的な伝統からの打開、外界の事物の模倣としての芸術からの解脱である。
芸術の目的とみなされている模倣というごく狭い概念は、こんにちまで生きのびているかに見える重大な誤解の原因である。人間には自分の心をうつ何かのイメージを多少とも巧みに再現するていどのことしかできない、という信条にもとづいて、画家たちはモデルをえらぶさいに、あまりにも妥協的すぎる態度を示してきた。ここでおかされていた過ちは、モデルとは外部の世界からしかえらべないものだと考えていたこと、いや、単に、外部の世界からえらびうるものだと考えていたことだった。
それはまさにアポリネールが『キュビズムの画家たち』にて「キュビスムを旧来の絵画と分かつものは、それが模倣の技術ではなく、観念の技術であり、さらには創造にまで高められようとする技術である、という点にある」と論じたことに呼応する。すなわち模倣とはモデルにおいて、人間を外界へと追いやってしまう。この外在への思考性こそが、プラトン的芸術系譜なのであり、それはピカソによって反転された。模倣という外在の世界から、創造という内在の世界への転換によってシュルレアリスムは始まり、ひいては現代アートへと至るのだ。
感受される事物に、ましてやそれらの慣習的な様相の示す扱いやすい側面に、あえてまっこうから攻撃をしかけるためには、それらの事物への裏切りをよほど高度に自覚していなければならなかったわけで、ピカソの責任のはかりしれぬ大きさを認めないではいられない。
ミロ論
ただジョアン・ミロについては、問題はまったく別のやりかたでしか立てられないだろう。人間精神が千もの問題でこりかたまっているというのに、そんなものにはまるで気をとめないでいるジョアン・ミロの場合、たぶんその心中には、ただひとつの欲望、つまり、描くために、描くためにのみ(彼にとって、まちがいなく手段を自由にできる唯一の領域に自分を限定するためにのみ)、純粋なオートマティスムに身をゆだねるという欲望だけがあるのだろう。私は私で、この純粋なオートマティスムをよりどころにすることをかつていちどもやめないできたのだが、どうやらミロのほうは、独力で、その深い価値、深い根拠を、ごく簡略に立証してきたのではないかと気にかかる。なるほど、たぶんその点からして、彼こそは私たち全員のなかでもいちばんの「シュルレアリストである」とみなされてよいかもしれない。
マグリット論
オートマティックであるどころか、反対にじゅうぶんな熟考にもとづいているマグリットの歩みは、別の面でこのころにはすでにシュルレアリスムの支えとなっていた。
シュルレアリスムの代表的存在とも言えるマグリットはなぜオートマティズムを拒み、その対なる位置づけにありつつも、シュルレアリスムを支えたのか。
マグリットの至上の独創性は、彼の探究や介入をこうした、いわば初歩的な事物のレヴェル、またあのような風景(田園の風景、植林された風景、雲の浮ぶ風景、海の風景、山の風景)のレヴェルに及ぼさせて(...)われわれの最初の《実物教育》がそれ以来、そうした事物や風景に関してわれわれに植えつけた率直なイメージ[l’image ingénue]にできるかぎり近寄ったことにある。(...)まさしくこのレヴェルにおいてこそ、マグリットは「魔法の杖のひと振りで」[d’un coup de baguette magique]、もっとも相対的な現実に属するこれらの事物を手で撫でながら、それらのなかに眠っている潜在的なエネルギーを解放する手段を見いだすのである。
それはマグリットが「「不可思議な」世界という発想は「慣れ親しんだ」世界の中に現われる。この「慣れ親しんだ」世界は偶然の一致を通じて顕在化するのであり、(...)別世界などという、うわべだけの存在の代わりに、偶然の一致が私たちを驚かせる私たちの唯一の世界を見失ってはならない」としたように、オートマティスムが理性を排し、外在する世界へ超越する運動なのだとすれば、マグリットのそれはむしろ理性をもって現実、私たちとともに世界に内在する所与を明らかにする技術なのである。したがってマグリットは次のようにいう。「私は事物の奥底を追求して、絵画を世界の認識を深めるための一つの道具(un instrument)にすることを選んだ」。
ゆえにブルトンが外だとすれば、マグリットは内であり、またブルトンが上だとすれば、マグリットは下なのだ。