トドロフ
1985『他者の記号学』
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主題とコロンの当為
私が語りたいのは、私というものがおこなう他者の発見である。〜この主題はひとたび一般的な形で提起されるやいなや、たちまち類別化による細分化が生じ、しかも多様な方向に分散化され、はてしなく続くことが分かるであろう。だれでも自己の中に何人もの他者を発見するのだし、また人間は等質の実体ではなく、自己以外の一切のものと根本的に異なる実体ではないということも異論なく首肯しうるであろう。私とは一人の他者なのだ。しかしさまざまな他者はまたさまざまな私でもある。つまりそれらの他者は私に似た主体たちであり、それらと私とを実際上分離区別するのは、人々はみなあちらにおり、私のみがここにいるとする私の視点だけである。こういう他者を抽象概念だとみなすこともできるし、いかなる個人にもある心的装置の審級とみなしたり、われにたいする他人または他性としての「他者」のようなものとしたり、あるいは私たちが属していないなんらかの現実の社会集団とみなすこともできる。この集団にしても、またそれなりに男性にたいする女性、貧者にたいする富者、〈正常者〉にたいする異常者、といったふうにして社会内部の集団であることもあるし、また社会の外部の集団、したがって別な社会になることもありうる。別な社会とは場合により、近かったり遠かったりする社会である。つまり、文化的、道徳的、歴史的な面で私たちが関連をもつ近い人々の社会であり、他方私が言葉も習慣も理解できず、極端な場合には、あまりにも見知らぬゆえに、私たちと同じ人類に属しているのだろうかと危ぶんでしまうほどの未知の人々、異邦人たちの社会である。
続けざまにまさに他者の「多様な分散」が述べられたが、こうして広げた図式にセンターピンをさす。
このうち外側の、遠くにいる他者についての問題が私の選択したものだ。この選択は少々恣意的だが、絶対にやりつくせないような探求をはじめるのに、一度に全部を説明することなどだれにだってできないだろう。
そして論じ始めることのできる「無数の物語」から「新大陸の発見と征服」を選ぶ
新大陸の発見、というよりむしろこの原住民の発見は、ヨーロッパの歴史上もっとも驚嘆に値する他者との出会いであった〜ラス・カサスがのべているように1492年以来、私たち〔ヨーロッパ人〕は「かくも新しい、他に類を見ない時代」に入ったのである。この時以来(たとえ宇宙は無限であるにせよ)、世界は閉じられ、コロン自身が確固たる口調で宣言したように「世界は小さくなった」のである。それまでは人は全体にかかわらない一部分を構成していたのにたいして、自分たちがその一部分となっている全体の存在に気づいたのだ。
そうした世紀の発見を起こした「コロンを航海に駆り立てたのはありふれた金銭欲なのであろうか」、トドロフはコロンのテキストの読解を通して彼の目的を見出す。それは「キリスト信仰の種がいたるところにまかれ広まるのを目にしたいと貪欲に渇望する」人物像であり、「金銭への欲求と真の神を受け入れさせようとする願望」は「前者が手段で後者が目的」であるとする。つまり人々を改宗させるために金銭を欲したのだ。
何もかも外的かつ絶対的な理想(キリスト教)に服従させる結果、この理想の実現のためには、地上のありとあらゆることが、単なる手段に過ぎなくなる。
ただこれとは一線を画したもう一つの素性を明らかにする。
他方では、彼にとってはもっとも成功した活動ともいうべき、自然界の発見-こうした行為それ自体で十分なのだという気分を引き出す一種の喜び-にいたったように思われる。この活動では実用性はまったく考慮されず、手段としての行為が目的となる。近代人にとっては、事物、行為、存在のそれぞれがそれ自体で正当化できるときにのみすばらしいものであるのと同じく、コロンにおいても〈発見する〉とは無目的な行為なのである。
つまり改宗ではなく、単にそれ自体が当為なのであり、コロンは存在論的に発見したいのだ。
コロンにとってそこに見出される〈に違いない〉利益なるものは二次的でしかなかった。重要なことは〈陸地〉であり、それを発見することであった。実をいえば、この発見とても、航海を物語るという目標にしたがっていると思われる。まるでコロンは、前代未聞の物語を作るために、『ユリシーズ』のようにあらゆる企てをおこなったようにみえる。しかし旅行記そのものは、単なる到達点ではなく、新航海への出発点ではなかろうか。コロン自身は、マルコ・ポーロの見聞録を読んだからこそ出発したのではなかったろうか。
コロンの真理観
コロンの中には、二人の人間が共存している。航海者としての仕事とはもはや関係がないとなると、すぐに超越論的目的論者の戦略が彼の解釈の方式を支配する。その戦略とは、もはや真実を探求することではなく、むしろ、あらかじめ分かっている真実の確証を見出すこと
これは先程の当為と照らすとわかりやすい。つまり一方には教条的なキリシタン、他方には存在論的航海士が顔をだすのだ。だからこそ前者が支配的になると、キリスト的な真理のもとに事実を解釈するのだ。つまり「彼の信念はつねに経験に先行する」。
最終的な意味がまず一挙にあたえられ(これはキリスト教の教義である)探求すべきことは、最初の意味(聖書本文の言葉の表面的な意味)とこの究極の意味を結びつける道筋である。〜決定的な論拠は経験的なものではなく、権威によるものである。何が発見されるかは、彼には前もって分かっている。具体的な経験は、真理の追求のためにあらかじめ決められた規則にしたがって検討されるよりも、その規則にしたがってすでに知られている真理を例示するためにある
だが「原住民を理解しようとするときよりも、自然を観察するときのほうがはるかに鋭いものがあった」として、超越的目的論者が顔を窄める時があるとしたからこそ、冒頭のトドロフのテーゼが成立する。
到達すべき結論がコロンによる自然界の記号解釈を前もって決定しているのだ。〜彼は新大陸を発見するのではない。それがあると彼が〈知っていた〉その場所に(アジアの東海岸が位置すると彼が前々から考えていたその場所に)見出すのである。〜ア・プリオリな知と神の意志や予言(実際には、彼の都合のよいようにこの方向で解釈したものだった)とは彼にとっては同じものである。
こうしたコロンの態度を三つによりわかる。
注意深い自然観察はそれゆえ、それぞれ無関係なつぎの三つの方向に行きつく。まず航行にかんする場合は、純粋に実践的、効率的な解釈、ついでそれ以外はどんな場合でも、記号が彼の信仰と希望の正しさを立証する超越的目的論的解釈、そして最後に解釈の拒否として、無目的な感嘆、美への絶対的服従があり、そこでは木は美しいから、かつ存在するから好まれるのであって、船のマストとして役立つとか、それによって富が約束されるからではない。
/icons/hr.icon
/icons/bard.icon 訳者あとがき
本書におけるこれらの人々の配列そのものが一つの意義をになっていることを指摘しておきたい。すなわち他者を「愛さない、認識しない、自己と同一視しない」コロン(とモクテスマ)の立場、つまり典型的なモノローグとしての文化の立場から、文化を他者とのたえざる対話ディアローグのなかにあるものとしてとらえる立場への漸進的な変化である。
2011『啓蒙の影に生きるゴヤ』
芸術へのマニフェスト
彼は読書をし、自らの職業について省察する。それを示すのが、1792年10月にアカデミーに宛てて提出した報告である。これは視覚芸術の教授法に関する調査に応じたものである。彼の同僚たちがかなり技術的な回答をし、学習に最適な部屋の条件や光の具合、模倣すべき画家や工房の組織方法といった実践的な指示にとどまったのに対し、ゴヤはまるでマニフェストとも言えるものを記し、それを同僚たちの前で朗読した。彼はこう主張する―この教育は可能なかぎり負担の少ないものであるべきであり、諸規則を忘れ、古代の大家を真似るのではなく自然を模倣することが肝要である、と。「私は事実をもって、絵画には規則など存在しないこと、そして、皆を一つの道に従わせて学ばせようとする抑圧や奴隷的な強制が、このきわめて困難な芸術を志す若者たちにとっていかに大きな障害となるかを証明しよう」と。彼はまず、目標に至る道は多数あるのだということ、そして各個人に自らの道を選ぶ権利を与えねばならないことを説く。(...)通常行われるように、透視図法を習得するために「諸芸術は他の諸学、たとえば幾何学の力や知恵に引きずられるべきではない」。諸芸術は固有の価値によって裁かれるべきであり、それが要求する技能もまた固有のものである。それを習得するには、「真の教授に大いなる敬意を払うこと、そして学びたい弟子の才能が自由に走るのを存分に許すこと、抑圧もせず、傾向をねじ曲げる手段を講じることもしないこと」―これで十分である。そして報告は一つの厳粛な言葉で結ばれる。「私はこのことの成果を得たいと願いながら、私の一生を費やしてきた」。(...)―絵画には規則などなく、各人は自らの傾向に従わねばならず、天賦の才を自由に走らせねばならない。突然、ゴヤは周囲の誰一人として公言できなかった原則を強く表明するのである。そのためには、個人の選択に対する社会秩序の影響が緩む必要があった。この闘いはルネサンスに始まったが、今や強度を増している。ここに、個人が自らの芸術の伝統から解放される道が開かれる。創作の自由を擁護するこの大胆な宣言は、十九・二十世紀に生じる芸術的理想の多元化を予告する。
ただそれはピカソほどラディカルなものでもないことは事実である。なぜならばアポリネールが云うように、複製技術の極たる写真の普及と同時に発明された「キュビスムを旧来の絵画と分かつものは、それが模倣の技術ではなく、観念の技術であり、さらには創造にまで高められようとする技術である、という点にある」。彼が目指した解放とは、寧ろプラトンより続く模倣としての芸術の理論的最終地点であり、最後のオールド・マスターを冠すに相応しい、原点にして頂点なる芸術表現なのだ。
彼はこう主張する――この教育は可能なかぎり負担の少ないものであるべきであり、諸規則を忘れ、古代の大家を真似るのではなく自然を模倣することが肝要である、と。(...)そのためには学習が必要であるが、その学習は古代の範例ではなく世界の認識に依拠すべきだ。「ギリシアの彫像と比べて自然を蔑むのを耳にするとは、何という醜 scandal であろう!」と。彼はこうした選択を正当化する―その方が画家は、仲介者の作品を模倣するのではなく、自らも創造者であるように、神の業を観察することになるのだ、と。「いかに卓越した教授であろうと、その教授が模写したものは、神の作である方の隣に置けば、大声でこう叫ばずにいられまい―こちらは神の業、そしてあちらは我らの卑しい手の業にすぎぬ、と」。(...)絵画の目的は依然として神の被造物を示すこと、すなわち「真理の模倣」、すなわち自然の模倣である。
それはすなわち極めてルネサンス的試みである。かのレオナルドは云った。「画家は、自分を魅惑する美を見たいとおもえば、それを生み出す主となり、また、肝をつぶすほど奇々怪々なものであれ、ふざけて噴き出したいようなもの、実際可哀そうなものであれ、何でも見ようとおもえば、その主となり神となる(...)画家の科学の神性なる所以は、画家の頭脳が神の頭脳に似たものに変る点にある」。
ゴヤは模倣=写しという教条を拒否する。この教条はすでに揺らぎ始めていたが、彼は、作品と自然物との正確な類似を求めるのではなく、至高の創造者=神を模倣しようとする芸術家たちに与する。形態の類似を目指すのではなく、それを生み出す行為の類比を目指すのだ。(...)ルネサンス以来、徐々に芸術家や識者の意識に浸透しており、十八世紀初頭にはライプニッツの哲学によって促進される。彼は「可能世界」の概念を導入し、現実世界と並行しつつもそれとは異なる世界を想定した。創造者の目的は、目に見える自然、周囲に知覚される物質的形態を模倣することではなく、創造の過程そのものを模倣することにある。芸術家は宇宙に類比的だがそれと分かれた小宇宙を創造する。ゆえに十五世紀の芸術理論家レオン・バッティスタ・アルベルティが言ったように、「画家や彫刻家が生きた存在を造形するとき、彼は他の人間の間で別の神のように際立つ」のだ。創造者たちは創造主に似るのである。
そしてこうした姿勢は何も通過点ではなく、晩年までの浸透する製作態度となる。
以後ゴヤは、自らの絵画観を一般的に提示する文章を二度と書くことはなかった。しかし晩年、ボルドーにて若き画家アントニオ・ブルガダと親交を結び、彼に自らの省察を分かち合った。ゴヤの死まで共にあったブルガダはその一部を記憶にとどめ、最初の伝記作者ローラン・マテロンに語った。マテロンは著書の中でこう記す――「我々はブルガダ氏のこの上なく親切なおかげで、ゴヤの生涯に関する貴重な情報を得ている」と。ブルガダによれば、ボルドーにおけるゴヤは「絵画についてほとんど語らず、その話題を向けられてもまず応じなかった」。この観察は、今日まで伝わるコメントの真実性をいっそう確からしいものにする。というのも幸いなことに、この規則には例外があったからだ。ここにゴヤの言葉とされる二つを記す。「絵画についての稀な会話の中で、老ゴヤは学士院員たちとそのデッサン教育のやり方を嘲るのを好んだ――“いつも線ばかりで、身体はない”。“だが自然のどこに線がある? 私には照らされた身体とそうでない身体、前進する平面と後退する平面、凸起と窪みしか見えぬ。私の目は決して線も細部も捉えぬ。通りすがる人の顎鬚の毛を数えることはしないし、彼の外套のボタンが私の視線を引き止めることもない。私の筆も私自身以上に見るべきではない。自然に逆らって、これら善良なる教授たちは総体の細部を欲するが、その細部はほとんど常に虚偽であり欺瞞である。若き弟子たちを愚鈍にし、彼らに鉛筆を研ぎ澄ませて、何年もかけて、アーモンド形の目、弓形やハート形の口、逆さの七のような鼻、楕円形の頭を描かせるのだ。ああ! 彼らに自然を与えよ、それこそ唯一のデッサンの教授なのだから!”」 「線、あるいはむしろ輪郭を否定したように、ゴヤは色をも断固否定した――彼が色彩画家であったにもかかわらず。彼は両方の否認を一つの論拠に基づけた。“自然においては色も線も存在しない。ただ光と影だけだ。炭片一つあれば私は一枚の絵を描こう。あらゆる絵画とは犠牲と決断を意味するのだ”と」。これらの言葉は、絵画教育をめぐって彼が学士院の同僚と交わした議論の延長に位置づけられる。彼はここで一つの原理から出発する――画家は世界をそのまま示すのではなく、この世界に対する自らの視を示すべきなのだ。初期のゴヤ伝の著者シャルル・イリアルトは、マテロンの本を読んでこの考えをこう要約した――「彼は、在るものではなく、見えるものを描くのだ」と。すなわち線でも色でもなく、光と影。細部ではなく、動く塊。「近眼でないかぎり、遠方から見えるとおりに」とマテロンは付け加える(これはブルガダの言葉をまだ言い換えているのだろうか?)。「犠牲」と「決断」とは、主観的な知覚が客観的世界にもたらす変化にほかならない。すべての絵画はそれに還元されると言うことは、コペルニクス的革命を導入することである。
こうしてゴヤは旧時代的芸術史の頂点として、最後のオールドマスターとして、新時代芸術史へと架橋する。犠牲と決断でもって。