デ・キリコ
ニーチェやショーペンハウアーなどのドイツ哲学に影響をうける
1911-14 パリ手稿
風変わりで色とりどりの玩具でいっぱいの、奇妙な巨大ミュージアムを生きるように、世界を生きる。
1912-13頃
デ・キリコは、イタリアの広場に着想を得た最初の形而上絵画が生まれた経緯を次のように回想している。
ある秋晴れの午後、私はフィレンツェのサンタ・クローチェ広場の真ん中にあるベンチに座っていた。(...)秋の生あたたかく愛のない太陽が彫像とともに聖堂のファザードを照らしていた。そのとき、あらゆるものを初めて見ているかのような不思議な感覚におちいった私の脳裏に、絵画の構図が浮かびあがってきた。
1919『形而上学絵画について』
形而上絵画は、古代から続き印象主義、キュビズム、未来派と続く芸術史から一線を画する。それはなぜか。それを示すためにキリコは「レバーを引き、歯車を回転させて時間をさかのぼり、過去へ戻らねばなら」ない。
まず第一に、私はレバーを引き、歯車を回転させて時間をさかのぼり、過去へ戻らねばならぬという衝動に駆られる。しかしそれは、感傷的な原始人や原始的感情へではなく(好きな方に呼んで構わぬ)、またサロモーネ・ライナッハのように髭面のラオコーンやヒステリックなニオベーの愚かしくも二重に卑しむべきパトスに絡め取られるためでもなく、ましてオリンピア風の黄金時代や好ましからぬ時代を呼び起こすインドの苦行僧となるためでもない ― すなわち、若者の守護神ユピテルが芳しい霧に降り立ち、自らの金象牙像の二重身を訪れたような時代のことをだ。私が戻ろうとするのは、そうしたものではなく、むしろ世紀を経た芸術の軌跡に沿って進み、「クサノン」(原始像)と呼ばれる遠い駅を通過する。これは近代主義者の最新の熱狂対象たる「黒人彫像」と並ぶものだ。そして私は探検家のごとく洞窟の入口に立ち、痩せ細ったバイソンやトナカイ、あるいは水頭症めいた神々の輪郭が岩壁に刻まれたその光景を見つめるのだ。心理的に言えば、洞窟人の芸術とは「印象の芸術」であったに違いない。したがって、洞窟人は印象派的な職人であったわけだ。結果として、昨日の我々の先祖たち ― すなわちコバルトやオレンジの層を塗り広げた者たち ― の芸術は、太古の洞窟住人のそれと繋がっており、精神的価値の秤においてはそれ以上の重みを持つものではない。(...)洞窟人は「描く」ということを知らぬ。濃密な闇に覆われた彼の心は、世界を悪夢の黄昏において見る。彼の魂を突き動かす主要な動機は恐怖そのものであった。他方、新しい形而上絵画の画家は知りすぎてしまった。彼の頭蓋と心臓は、柔らかな蝋の円盤のように、多くのものに痕跡を刻まれ、記憶や予言を刻印されている。あまりに多くの神々が死に、再生し、そしてまた復活なき死を遂げてきた。彼は再び自室の天井と壁、周囲の物体や通りを行き交う人々を見つめる。そしてそれらがもはや昨日・今日・明日の論理には従わぬことを知る。彼はもはや「印象」を受け取るのではなく、むしろ新しい相貌と新しい幽霊的要素を絶えず「発見」するのである。もしこの複雑な心理過程を、動物や野蛮人や原始人の笑わぬ厳粛さの光の下に眺めれば、その心はむしろ気楽で平穏である。恐怖は消え、地上の楽園がふたたび現れるのだ。― 今日、芸術はその最高の意味に到達した。道のりは長く骨折りであり、空白と豊かな誤解に満ちていた。
すなわち洞窟人から印象主義までその本質は変わらず、一方的に与えられたものを、その意味と認識を表現するに過ぎなかった。そしてキュビズムや未来派はそれを乗り越えようとしたが失敗に終わった。そこで登場するは形而上絵画に他ならない。この地点において初めて絵画とは、受動的な活動でなく、能動的な活動として生起し、「「印象」を受け取るのではなく、新しい相貌と新しい幽霊的要素を絶えず「発見」するのである」。ではそれは如何なる契機のもと実現されたのか。いわく、ショーペンハウアーとニーチェである。
芸術は近代の哲学者と詩人によって解放された。ショーペンハウアーとニーチェは、人生の深い無意味さ、そしてその無意味さがいかに芸術へと転化されねばならぬかを最初に教えた。新しい有能な職人は哲学を超えた哲学者である。彼らは戻ってきて、カンヴァスや壁の長方形の前に立つ。なぜなら彼らは「無限の観照」を克服したからだ。恐ろしい虚無として発見されたものは、物質の同じく無意味で静かな美だった。この発見の喜ばしさをまずもって祝おう。この新しい芸術は卓越して「愉快」なものである。(...)この発見の正当な功績はニーチェ(ポーランド人)に属し、詩においてはランボーが初めて用い、絵画においてはこの私に帰せられるべきである(...)我ら形而上学者は「現実」を聖別した。かつてバビロニアの天文学者たちが静かな夏の夜に、都市の屋上テラスで渾天儀やコンパスを傍らに無限を見守った。河川の氾濫の泥や火を孕んだ風に押された砂に基礎が埋もれた都市で、彼らは神の裁きの吐息のごときものに混じりながらそれを見た。その「無限」が、いまや我らの部屋の天井や聖なるアトリエの壁に下地として還元され、リスト化され、カタログ化され、整理棚に収められるのだ。それによって我らが無為に陥ったか? フェルネーの恐ろしい哲学者の肘掛椅子(書見台つきの本物)に逃げ込む理由があるのか? 決してない。むしろ我らはより強く、より朗らかで、新たな出発に備えている。だが今日、我らは皆、あの宿命的なスペイン人航海者のようだ。暑苦しい夏の日の終わりに、太平洋の広大さを目の当たりにし、発見された世界が真に「新世界」であると理解したのである。(...)私の前に誰一人として、私が試みたことを芸術において試みた者はいない。私の仕事は人類芸術の進展と複雑な内的機構における驚異的な段階を画す。未踏の地平から、もっとも信じがたい策略が戻ってきて、外的形而上学と、説明不能な抒情の恐るべき孤独の中に定義される。それはビスケットであり、二つの壁がなす角であり、この不穏な生において我らを取り巻く愚かで無意味な世界から自然を呼び起こす素描である。それは、普遍的白痴によって役立たずと見なされた物体たちの幽霊的な喚起である。
ここでその地平が示された。ニーチェは全てに意味がなく、不条理で、切断されているならば「全ての存在は本質的に解釈的ではないか(...)むしろ世界は我々にとってもう一度「無限」となった。世界が無限の解釈を含んでいるという可能性を否定できない限りにおいて」とする。すなわちこの「恐ろしい虚無として発見された」地平とは、解釈可能性に肥沃な豊かな大地であり、ニーチェとランボーとキリコは「発見された世界が真に「新世界」であると理解したのである」。そして、無意味なこの世界に「新しい相貌と新しい幽霊的要素を絶えず「発見」する」ことで、「我らを取り巻く愚かで無意味な世界から自然を呼び起こ」し、「普遍的白痴によって役立たずと見なされた物体たちの幽霊的な喚起」を実現することこそ形而上画家の成すべきことであり、その意味で彼らは「哲学を超えた哲学者」として「彼らは戻ってきて、カンヴァスや壁の長方形の前に立つ」のだ。
形而上絵画の背景を説明するのは容易ではない。それは精神的力と絵画的構築において、人類の芸術でこれまで試みられたあらゆるものを凌駕するからだ。だがそれを、脳みそが無頭の軟体動物程度しかないローマや他所の青二才や、混乱した似非インテリに説明するのは骨が折れる。もっとも、だからといってフランスのキュビストやイタリアの未来派のように難解な理論や弁解的な説を持ち出す必要はない。天才は天才によってしか裁かれない ― これはボードレール(阿片常用者)以来の真理である。
1919『RETURN TO CRAFT』
今や明らかなことは、過去半世紀にわたって流派や体系を発明しようと骨身を削り、独自性を誇示し、個性をひけらかすために絶え間ない努力の汗を流してきた画家たちが、(...)今や手を差し伸べ、暗闇の中を歩む人間のように用心深く、技巧に煩わされない芸術へ、より明晰で具体的な形象へ、婉曲を避けつつ知識と力量を証言する表面へと戻ろうとしている。私の考えでは、これは良い兆候である。このような展開は必然だったのだ。
こうした技巧、現代アートから古典様式への回帰とその展開は当時ヨーロッパ中で起きてることとし、それは前世紀の天才たちを巻き込んだ必然のダイナミクスとする。
この現象はいまやフランスでもイタリアでも顕著である。ドイツのことはまだよく知らないが、私が見た数少ないドイツの評論誌―《ユゲント》を含む―によれば、彼ら旧敵はいまだに「戦前の状態」にとどまっているようだ。しかし私は誓って言える、半年もすれば協商国で起きた変化が神聖なるヴォルフガング(ドイツ)でも起こるだろう、と。フランス―そう、フランス! 昨日まで芸術において法を定めていた国、そのフランスで、かつてアポリネールがキュビスム論で称賛した天才たちが、いまや人間像の精緻な素描に取り組んでいる。思えば、かつて絶対的な愚か者と見なしていた者たちが何年も前にやっていたことを、彼らはいま行っているのだ! 私に思い出されるのは、パリで知り合ったザックという名の画家だ。彼はポーランド系ユダヤ人で、家財道具や守護神ペナーテスとともにセーヌ左岸に移り住んでいた。彼の絵は、いまや悔悟する前衛やキュビストの小さな手から生み出される作品と酷似していた。率直に言えば、このザックという画家は朽ちかけた胡桃ほどの価値もないと私は思う。そして私の良き友アポリネールも同意見で、ザックの名を口にするだけで胸を抱えて笑ったものだ。1919年になって、自分の愛する画家たちがあの軽蔑されたポーランド人とほぼ同質の作品を描くようになると予言されたら、アポリネールはさぞ仰天したことだろう。しかしどうしようもない。芸術の歴史には民衆の歴史と同じように逆説的な転回があるのだ。とはいえ落胆する必要はない。最良の審判者である「時」が、すべてをしかるべき場所に戻すだろう。
そうして帰結されるは当然の如く古典主義、原始主義。かのオールド・マスターらが紡いできた幾千年の歴史である。
そして今また、画家たちの一団が静物に戻り、今度こそ誠実さを求め、より明快な形で対象を表そうとしている。中にはより大胆に、人間像にまで挑戦する者もある。しかし、ああ! そこにこそ問題が生じるのだ。道は険しくなり、歩みは遅くなり、彼らは壁や街灯、並木の木々にすがりながら進む。さもなければ転倒し、四肢を天に突き出した素人スケーターのように転がり落ちてしまうからだ。強い意志を持つ者ですら指に関節炎のこぶを覚え、気を失いそうになり、自信を失う―それは何年もメスを握らなかった外科医が難しい手術を前にした時のように、何年も棺に眠っていたヴァイオリンを突然弾こうとする音楽家のようである。とはいえ、どこかから始めねばならぬ! こうして少しずつ、彼らは再び原始主義に手を伸ばす。頭部、手、足、胴体を描くのだが、それらはキュビスム、未来派、分離派、フォーヴィスムの領域に属さないにもかかわらず、不備や誤りのために荒々しく見え、その慎ましやかな失敗は様式的な歪曲で覆い隠される。技術への回帰! それは容易ではなく、時間と努力を要する。学校も師も欠けている―あるいは存在してはいるが、この半世紀の間にヨーロッパに蔓延した「色彩主義の愚行」によって汚染されてしまった。アカデミーは存在し、その道具や方法や体系もある。だが、ああ! その成果たるや! (...)混乱と無知、そして圧倒的な愚かさのただ中にあって、わずかに頭脳明晰で澄んだ眼をもつごく少数の画家たちが、古き巨匠たちの原理と教えに基づき、画法の科学への回帰を準備しているのだ。何よりもまず、巨匠たちが教えたのは「素描」であった。素描はあらゆる造形の基礎であり、すべての優れた作品の骨格であり、あらゆる技巧が従うべき永遠の法則である。(...)政治の選挙で有権者が「投票所へ」と駆り立てられるように、我々もまた絵画における善き模範として「像(スタチュー)へ」と悔悟した画家たちを呼び戻すのだ。そう、像のもとへ。像のもとで素描の高貴さと宗教性を学ぶために。像のもとで、諸君がいまだに「幼稚な悪ふざけ」にもかかわらず「人間的、あまりに人間的」である自分を少しばかり非人間化するために。
そうした現代アートの痛烈な批判は、その速度に現れる。加速する商業化の波に飲まれ、アートはその身を汚す。
工芸への回帰において、画家たちは極度の勤勉さをもって手段を完成させねばならない。カンヴァス、絵具、筆、油、ワニス、いずれも最高品質のものであるべきだ。だが不幸なことに、今日の絵具は製造者の不正と不道徳、さらに現代画家の「速さへの狂気」によって非常に質が低下してしまった。商人たちは、誰一人苦情を言わぬと知って、粗悪な商品を売りさばいてきた。画家たちが再び自ら絵具やカンヴァスを作る習慣を取り戻せばよい。忍耐と努力が必要だろう。だが、絵画は「できるだけ早く仕上げ、画商に売る」ことだけを目的とする必要はないのだと理解したならば、画家は数か月、いや数年をかけて、作品が完全に仕上がり、良心が完全に満たされるまで描き続けるようになるだろう。その時、毎日数時間を費やして自作の絵具やカンヴァスを準備することは難しくないだろう。それを愛情をこめて行い、費用も安く済み、より安全で一貫した材料を手にできるのだ。
こうしてデ・キリコは現代に個展への回帰の賛歌を示し、以下のように締めくくる。
もはや私たちは、政治的であれ文学的であれ絵画的であれ、あらゆる狂態に満腹している。ヒステリーが消えつつある今、幾人かの画家は再び工芸に戻るだろう。そしてすでに戻った者たちは、より自由な手をもって働くことができ、その仕事はより正当に認められ、報われるだろう。私自身は落ち着いている。そして私のすべての仕事の印章となる三つの言葉で自らを定義する― Pictor classicus sum
1940『彫刻に関する小論』
彫刻は柔らかく、温かくなければならない。そして絵画のすべての柔らかさだけでなく、そのあらゆる色彩も具えるだろう。美しい彫刻は、常に絵画的なのである。
1962 『Memorie della mia vita』
デ・キリコの形而上絵画は、1914年に一つの転換期を迎える。第一次世界大戦の勃発によって、兵士としてパリからフェッラーラへと移り住んだデ・キリコは形而上絵画の対象を、広く見渡す開けた視界から、クローズアップした事物が背景を埋めつくすような閉ざされた室内へと変化させ、描かれる事物もヴンダー・カンマを思わせるような脈絡なき諸事物へと様変わりする。
その当時私が追求していた形而上絵画の制作にもっとも強烈なインスピレーションを与えたのは、フェッラーラの家々の室内、街のショーウィンドウ、店舗、家々、そしてまたこのうえなく形而上的で並外れた形のビスケットやお菓子などを見かける古いゲットー(ユダヤ人街区)などの界隈であった。