ゴーティエ
1844『奇人志』
ロマン主義の先駆者テオフィル・ド・ヴィオーについて
テオフィルは真に偉大な詩人であり、その影響は、目立たず説明のつかないものではあるが、現在の文学に非常に顕著に表れているからだ。―10年あるいは12年前には、最も大胆な新奇さとして見なされていたような思想が、テオフィルの中に発見されることに、人々はきっと驚くだろう。―なぜなら、 言わなければならないが、ロマン主義運動の先駆者である。
本稿では上記にて示されているようにゴーティエがなぜテオフィルをロマン主義者の先駆としたか、そのパースペクティヴを明らかにしていくこととしたい。しかし、その前にゴーティエがなぜ一七世紀に生まれ、歴史に埋もれてしまった彼を紹介しているかについて論じなければならず、ゴーティエはその理由を赤裸々に告白している。それはその同名ゆえであった。
彼の詩を 彼の詩を一行も読む前から、私はすでに彼に親しみを感じていた。それは、テオフィルという名前が私と同じだからだ。あなたがそれを知っているかどうかわかりませんが。―それは 幼稚な考えかもしれませんが、テオフィル・ド・ヴィオについて語られるあらゆる悪評が、まるで私、テオフィル・ゴーティエに向けられているかのように感じられたことを告白します。―ボワロー先生には、私の哀れな同名の人物を侮辱するあの手ごわい詩のせいで、喜んで殴りつけてやりたかったし、その無礼な引用が載っている修辞学の書物を火に投げ込んでやりたかったほどです。―私自身の詩に対する個人的な批判が、これほどまでに これほど胸に刺さったことはありません。この狂おしいほどの誇りの爆発をお許しください。しかし、私と同じ名前を持つ男が、テオフィル・ド・ヴィオがそうであったと主張されるほどひどい詩人であるなど、私には到底信じられませんでした。「テオフィル」という名前は他の名前と何ら変わりませんし、私こそが、 その名前を名乗りながらも、拙い詩を書くことが十分にあり得るという証拠なのかもしれない―しかし、この無名の名前は、あまりにも優しく、あまりにも甘い声で呼ばれるのを耳にしてきたため、私は自分自身の中にも他者の中にもこの名前を愛しており、おお、古きシェイクスピアよ、君の「ウィリアムズ」という名と引き換えにするつもりはないし、おお、美しいゴードン・バイロンよ、君の「ノエル」という名と引き換えにするつもりもないのだ!私の心の安らぎのためには、私が抱いたまったく根拠のない推測―テオフィル・ド・ヴィオは、私、テオフィル・ゴーティエと同じくらい優れた詩人である―を確信する必要があった。ざっと目を通すだけで、その確信は十分に得られ、それ以上のものさえ感じられる。そして、この記事と、あちこちから無作為に引用したいくつかの言葉によって、あなたがたがどれほど頑固で、ボワローの熱烈な崇拝者であったとしても、きっと私の意見に完全に同意してくれるだろうと思う。これは私にとって心の問題であり、ほとんど家族の問題でもある。だから、あなたがたが 私の偶像の前にひざまずくまで、決して休ませてはあげません。――私はどんな宗教に対しても非常に寛容ですが、テオフィルに関しては極めて熱狂的であり、また極めて不寛容です。もしあなたが私と同じように彼を信じないなら、あなたに救いはないとしか思えません。テオフィルの名付け親が、彼をそう名付け、他の名前では決して名付けなかったという、なんと見事な発想だったか、ごらんなさい!というのも、もし彼女が彼にクリストフやバルテレミという名前をつけていたなら、私は彼に微塵も関心を払わなかっただろうし、それはまず彼にとって、そして次にあなたや私にとっても、大きな不幸だったはずだからだ。―彼の著作の表題では、なぜかテオフィルはファーストネームだけで表記されている。— 彼の姓は「ド・ヴィオ(de Viau)」であり、一般に綴られている「ヴィオ(Viaud)」ではない。彼自身が書いた弁明の一節がそれを証明しており、彼の宿敵であるガラッセ神父は、いつものようにこの名前を巧みに弄び、16世紀の学者かつ神学者らしい言葉遊びを用いて、彼を「ヴォー(Veau)」と呼んでいる。
ではいよいよなぜテオフィルをロマン主義の先駆と呼んだかについての本題に入っていくわけだが、第一に指摘しなければならないことはゴーティエがその文体論を多く展開していることにある。そこで提案される図式は自由な創作としてロマン主義によって再評価されたロンサールと、定型化された作詩法を論じたマルエルブである。なぜならばロンサール以後、彼の詩句を一言一句細かく分析・批判する「文法家の流派」として登場した、頑固で冗長で乾ききったマルエルブを称賛した人物こそ、ヴィオーの価値を貶めた同時代の批判者たるボワローに他ならないからである。その意味で自由な詩作を礼賛するヴィオーの言葉を引用し、「これらの文章は17世紀初頭に書かれたものだが、実のところ、まるで昨日出版されたばかりのロマン主義的な本の序文から切り取られたかのようである」とするのである。
実際本稿の多くはこの論証に取られるわけだがしかし、これだけがロマン主義の先駆たる所以なのか。わたしはそうは思わない。なぜなら、ボードレールが「テオフィル・ゴーティエは、シャトーブリアンが築いた憂鬱の偉大な流派をある意味で受け継いだ。彼の憂鬱は、むしろより積極的で、より肉感的であり、時に古代的な悲しみに近いものさえある」と評する人物が、あのリベルティナージュの特質した詩学を発見しないはずがないからに他ならない。本文章の冒頭「彼は若くして亡くなり、生涯を通じて迫害され、死後もその真価は認められなかった。彼の不運な運命はまさに極まりないものであったことがわかる。彼自身も、「自分は怒れる星の下に生まれなければならなかったのだ」と語っている」という内容に始まるように、ゴーティエはまず手始めにその人生は悲惨に満ちていることから本論を始めている。
テオフィル・ド・ヴィオは1590年、アジェン地方の小さな村、ブッセール=サント=ラデゴンデで生まれた。この村はロット川の左岸にあり、 アイギヨンの少し上流、ポルト・サント・マリーから半リーユの場所に位置する。これは、彼の著作のいくつかの箇所や、おそらくスクデリーによって作られ、本書の冒頭に掲載された賛辞の詩からも確認できる。伝記作家や注釈者たちが彼の出生地をクレラックとしているのは誤りである。彼は酒場の主人の息子である 酒場の主人の息子であるという説があった。――これは彼に対する激しい敵意の表れに他ならなかった。というのも、彼の家族は周知の事実であり、そのような主張の荒唐無稽さを証明することほど容易なことは世にないからだ。しかし、ガラス神父はそこをあまり深く追求しなかった。— 彼の祖父はナヴァール王妃の秘書を務めていた。アンリ4世は、その忠実で立派な功績を称え、彼の叔父をトゥルノン総督に任命した。彼の父は、ボルドーで弁護士として活動した後、内戦のため、またユグノーとしての立場から迫害されることを恐れて、ブッセールに身を隠した。「そこには小さな城が見え / 大きな丘のふもとに寄り添っている。」詩人の先祖が建てた小さな塔からは、その邸宅が かなり遠くに佇み、周囲に群がるより質素で庶民的な家々を頭一つ分も上回ってそびえ立っている。―その風景は極めてロマンチックである―丘の上の土壌は比較的痩せており、岩が点在しているが、 素晴らしいクラレットを生み出し、そこでは非常に快適に暮らすことができる。麓には、涼しく豊かな牧草地が広がり、広葉樹の森が鬱蒼と茂り、木陰に満ちている。ブッセールはまさに地上の小さな楽園である。もし 、牢獄の底で貧しいテオフィルが綴った詩的な描写を文字通り信じるならば、まさに地上の小さな楽園と言える。というのも、彼の短くも充実した人生の多くの月日、多くの年が獄中で過ごされたものであり、刑務所の窓ほど風景を美しく彩る舞台はないからだ。すべてから隔絶されていると、物事ははるかに魅力的に見え、記憶という暗室を通して眺める光景は、独特の深みを帯びてくる。
そして実際にゴーティエはその発芽として、同時代のなかで傑出した「高貴さと憂鬱さ」を挙げているのであり、さらにその進歩的な精神による悲劇の追随までをも射程として論じているのだ。
テオフィルが同時代の詩人の中で占めるべき位置については、明確に定めるのは難しい。彼は非常に若くして亡くなり、自らの構想を実現する時間がなかった。あるいは、少なくとも不完全な形でしか実現できなかった。しかし、現状においてさえ、 レニエはすでに亡くなり、コルネイユはまだ登場していなかったこの時代において、彼は最も傑出した詩人であるように思われる。彼は、ハーディやポルシェール、ボワ=ロベール、メイナール、ゴンボー、そして当時のあらゆる才人――彼らは 実のところ、世間が思っている以上に優れた才能を持っていた。サン=アマンこそが、我々の見解では、彼と互角に張り合える唯一の存在である。しかし、サン=アマンもまた偉大な詩人であり、見事なほど悪趣味で、熱く奔放な才気を持つ。その糞の山の中に多くのダイヤモンドを隠しているが、彼にはテオフィルのような高貴さと憂鬱さを持っていない。しかし、彼はテオフィルにはないグロテスクさと躍動感によって、その欠点を補っている。―一方は「太った男」の詩を紡ぎ、 もう一方は痩せた男の詩を紡ぐ。そこが違いだ。マルエルブやラカンについては、彼らがより非の打ち所がないとはいえ、間違いなく彼には及ばない。そして私は、多くの点で称賛に値するこの名が、これほど長い間、不名誉と忘却の淵に沈められてきたことに、常に驚かされてきた。今や、彼が導入しようとした改革は万人に受け入れられているのだから、 そこには極めて単純で極めて自然なことしか見出せないかもしれない。しかし、当時の状況に立ち返る必要がある。そしてその後の展開を見れば、 テオフィルがいかに進歩的な精神の持ち主であり、その時代を先取りしていたかがわかるだろう。しかし、あらゆる真理には、常に道から外れ、荒野で説教し、苦難の末に死ぬ、ある種の貧しい「先駆者聖ヨハネ」のような存在がつきものだ。―テオフィルはまさにそのような人物の一人であった。もし彼が今この世に戻ってきたなら、疑いなく、新しいプレアデス星団の中で最も輝かしい星の一つとなるだろう。
したがって、ゴーティエはその歴史的な没落の原因から、ボワローの批判の檻に閉ざされ、本論で啓蒙すべきその中心を見誤っていたように思える。しかし、彼もその価値に気づいていないわけではなかった。なぜなら本論の評価は悲劇、高貴さ、憂鬱に始まり、終わるのだから。
1874 "Alfred de Vigny"(引用)
彼はまさにエロアの詩人であった。エロアとは、キリストの涙から生まれ、慈悲によってルシファーを慰めるために降りてきた乙女である(Il était bien le poëte d’Éloa, cette vierge née d’une larme du Christ et descendant par pitié consoler Lucifer).