ボードレール
私はただ、ゴヤが滑稽の分野にもたらしたきわめて稀な要素について数語をつけ加えておきたい。つまり幻想性について語りたいのだ。(...)なるほど彼はしばしば兇暴な滑稽に飛び込んでいくし、絶対的滑稽にまで高まることもある。しかし、彼が事物を見る全体的な相はなかんずく幻想的なものである。というかむしろ、彼が事物の上に投げかける眼差しが、自然に幻想的な翻訳なのだ。
第二章 ロマン主義とは何か?
ロマン主義は〈北方〉の息子であり、そして〈北方〉は色彩家である。幻想とおとぎの国は靄の子どもたちである。英国、いら立った色彩家たちのあの祖国、フランドル、フランスの半分は、霧の中に沈んでいる。ヴェニスはそれ自体潟に浸かっている。スペインの画家たちに関していえば、彼らは色彩家というよりはむしろコントラストの画家たちである。それに反して〈南方〉は自然主義者であり、なぜならば自然がそこではあまりに美しくて明瞭なので、人間は、望むべきことは何もなく、見るもの以上に創り出すべきより美しいものは何も見出さない。ここでは、野外の芸術、そして数百里もっとのぼれば、アトリエの深い幻想と灰色の地平線に溺れた空想の眼差し。〈南方〉は、彫刻家が最も繊細な作品においてもそうであるように、ありのままで実証的である。苦悩し不安な〈北方〉は、想像力で心を癒し、そして彫刻するにしても、その彫刻は古典主義的というよりは多くの場合絵画的である。ラファエロは、どんなに純粋であろうと、絶えず揺るぎないものを求める物質主義的な精神にすぎない。しかしレンブラントというこのならず者は、夢見させてあの世を見抜く強力な理想主義者である。一方は、真新しく汚れのない状態の被造物―アダムとイヴ―を制作し、他方は、われわれの目の前でぼろ着を揺すり、そして人間の苦悩をわれわれに物語る。しかしながら、レンブラントは純粋な色彩家ではなく、ハーモニーの画家である。もしもひとりの強力な色彩家が、最も大切なわれわれの感情と幻想を、主題にふさわしい色彩でわれわれに対して表現するならば、どれほどいったいその効果は新しく、ロマン主義は素晴らしいものになるだろうか! このように、ロマン主義の「北方」は、色彩家で理想主義者であり、想像力が豊かで、絵画に秀で、原罪以後の失楽園的世界を表現している。他方、古典主義の「南方」は、自然主義的かつ実証主義的で、彫刻に秀で、原罪以前の楽園的世界を表現している。
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序章
我らが心を占めるのは、我らが肉を苛むは、暗愚と過誤と罪と吝嗇。乞食が虱を飼う〜
内在的な悪の表現
悪魔(サタン)トリスメジストに揺すぶられ、小賢しいこの科学者の手にかかっては我らの意思の鋼さえ煙となる〜好自由、糸を握って木偶さながらに操るは〜
注)トリスメジストは三倍と言う意味から来た言葉で、ギリシアのエルメスあるいはエジプトのトト神の異名(ラルースより)。古代エジプトで錬金術を人間に啓示した神の使者(半神半人)とされています。19世紀フランスでは錬金術が流行していました。ランボーも「地獄での一季節」で、見者の詩法を「言葉の錬金術」と言ってます。そして、金こそはできませんでしたが、化学の進歩を導きました。(引用) 『ファウスト』で錬金術師の主人公が悪魔に魂を明け渡す様からの引用じゃないか? 我らが悪業の醜猥な動物園に、啼き、喚き、吠え、唸り、のたうちまわる怪物に混じり、特別に醜くて性悪で不潔な奴が一ついる〜こ奴、名は「ennui」
最大の悪をボードレールは「ennui」と捉え、その旋律を記述する ゴヤに関する記述
ゴヤ、未知の事物でいっぱいの悪夢、/ 魔宴のただなかで焼かれている胎児 / 鏡を見る老婆たち、悪魔を誘惑しようと / 靴下をなおしている全裸の少女たち、
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子どもはすべてを新しさのうちに見る。子どもはいつも酔っている。色彩や形態をむさぼり吸い込む子どもの歓びほど、いわゆる霊感に似たものはない。〜天才とは、意のままに再び見出された幼年期(I'enfance retrouvée à volonté)、今や己を表現するために成年の諸器官をもつようになり、無意志的に集積された材料の総体に秩序をつけることを可能にしてくれる分析的精神をもつようになった、幼年期に他ならない。 世界を先入見なしに見つめ、都度歓びとともに新たな発見をしていく「霊感」としての「子ども」の能力を、「大人=成年」の表現力と分析力とを備えつつ駆使する者が芸術家であるとする
ボードレールは『危険な関係』を「歴史の書」と規定しただけでなく、「フランス大革命を解釈し説明する」書物であると考えた。そして次のテーゼを唱える。
革命は官能的なる人々の手によってなされた(La Révolution a été faite par des voluptueux.)。(...)それゆえ、放蕩な書物というのは、大革命を解説し説明することとなる。