ゴダール
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パトリシア「フォークナー知ってる?(...)『野生の棕櫚』読んだ?(...)最後の文章が美しいの。「悲しみと無なら私は悲しみを選ぶ。」悲しみと無なら私は悲しみを選ぶ。あなたはどっち?」(...)ミシェル「悲しみはくだらない。無を選ぶね。悲しみなんて妥協案を取るよりマシさ。すべてか無かどちらかだ。今わかった。やっとね・・・」
記者「エロティシズムと愛に違いはありますか?」「いや違いませんね。同じです。なぜなら、エロティシズムは愛の形の一つ」
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ラング「毎朝パンのためにウソを売っている市場へ。売り手にまじって並ぶ私は希望に満ちて」カミーユ「それはなんです」ラング「ハリウッド。B・Bの詩の一部だ。」ポール「ベルトルト・ブレヒトですね」
神話と愛の交錯するゴダールの美的マニフェスト
これは「かつてドイツ表現主義の巨匠であり、ナチスから逃れてハリウッドに渡りB級映画を撮っているフリッツ・ラング(本人役)」が、「斜陽を迎えつつあるヨーロッパ映画界と、それを象徴するローマのチネチッタ」で、「強欲なアメリカ人プロデューサーにバカにされながら『オデュッセイア』を映画化しようとしている」という設定のハイコンテクストに物語は始まる。「斜陽を迎えつつあるヨーロッパ映画界」にて商業映画と袂を分たんとするラングの気概は、冒頭のダンテの引用に象徴的である。 しかし、ギリシャ精神に即したラングの脚本に不満を垂れるプロクシュは、脚本のリライトに主人公ポールを雇う。戯曲を書くことを本懐とするポールは最愛のカミーユとの生活がために、脚本の仕事を受けるか否かを悩ませていた。そしてそれは最愛の人アンナ・カリーナとの関係に苦悩したゴダールの自己投影にあった。そしてポールは自らの境涯をユリシーズに重ねる。
カミーユ「世界に対する概念が違うのが問題であろう。肯定的か否定的か。ギリシャ悲劇は後者である。神々によって運命の犠牲者を具現化し、絶望へと導くのである。(...)私は考える。人は偽りや悪に立ち向かうことができる。環境や慣習に捕らわれたら立ち向かうべきだ。ただし殺人は解決法ではない。」(...)ポール「最初ユリシーズは求婚者に放っておけと妻にいいます。彼らが真剣だとは思わなかったし、スキャンダルを怖れていたから。妻の貞節を知ると、求婚者への親切を許した。その結果、単純な女であるぺネロぺは、夫を軽蔑するようにユリシーズの態度ゆえに愛せなくなった。妻はそう言った。ユリシーズは自分の慎重さによって、愛を失ったことにやっと気づいた。妻の愛を取り戻すには求婚者を殺すしかない」ラング「死は結論にならない」
本作のプロデューサーのひとりにジョセフ・E・レヴィンというアメリカ人がいたが、ゴダールがハリウッドの映画人と組んだのは、これが最初で最後。レヴィンは世界マーケットに本作を売り出すために、バルドー(カミーユ役)のヌードシーンを求めた。商業映画に批判的なゴダールは、これを受け入れるも煽情的な描写は避け、俳優と絡ませることもなかった。人魚が泳ぐ映像美に舐めまわすような薄汚い笑みを浮かべるプロクシュ(=アメリカ人プロデューサー)が、カミーユ(セックス・シンボルたるバルドー)と駆け落ちし、死するところで―ゴダールが自己を投影する―ポールが、戯曲へと意を決するシーンはなんと皮肉なことだろう。
死は結論となった。もしかするならばこれはゴダールなりのラングへのメッセージだったのかもしれない。ナチスから逃れてハリウッドに渡りB級映画を撮っているフリッツ・ラングと、それから袂を完全に分つゴダール。ラングが訴える死の不可能性は、現実へと縋るか細い糸であった。それは次の作中のラングの言葉に示唆的である。
ホメロスの世界は現実だ。詩人も文明社会に所属している。自然に逆らうことなく調和しながら。『オデュッセイア』の美は、まさにこの現実のなかに息づいていると思う。
ゴダールとラングを分水嶺として隔てるそれは、まさに「世界に対する概念」の違いなのであろう。その意味で本作は名実ともに神話と愛の交錯するゴダールの美的マニフェストなのであった。