グリーンバーグ
同一の文明が、同時にこれほど異なる二つのもの、すなわち T.S.エリオットの詩やティン・パン・アレーの歌、あるいはブラックの絵画や『サタデー・イブニング・ポスト』の表紙を生み出す。これら四つはいずれも文化の範疇に属し、一見すると同じ文化の一部であり、同一社会の産物のように思える。(...)このような不均衡が単一の文化伝統の枠内で存在しているという事実——それはこれまで当たり前のこととされてきた——は、この不均衡が自然の秩序の一部であることを示しているのだろうか。それとも、それはまったく新しいものであり、私たちの時代特有のものなのだろうか。
キッチュの台頭とアヴァンギャルドの危機
前衛(avant-garde)が存在するところには、一般的に後衛(rear-guard)も存在する。アヴァンギャルドの登場とほぼ同時に、工業化された西洋で現れたもう一つの新しい文化現象がある。それがドイツ語でキッチュ(Kitsch)と呼ばれるものである−大衆的、商業的な芸術や文学であり、クロモタイプ(印刷複製)、雑誌の表紙、挿絵、広告、軽薄小説、コミック、ティン・パン・アレーの音楽、タップダンス、ハリウッド映画など、多様な形態を含む。なぜか、この巨大な現象は長らく当然のものとして扱われてきた。ここでその理由を検討する必要がある。 これは如何にして生じ得たのか。グリーンバーグにしてみればそれは「普遍的識字能力」の誕生に求められる。
キッチュは、工業革命の産物である。西ヨーロッパやアメリカにおいて、大量の人々が都市に移住し、普遍的識字能力が確立されたことによって生まれた。それ以前は、フォークカルチャーとは区別される形式的文化を消費する市場は、読み書きができることに加えて、余暇や快適さを享受できる階層に限られていた。この能力は長らく教養と切り離せないものであった。しかし普遍的識字能力の導入により、読み書きの能力は単なる技能となり、もはや個人の文化的嗜好を示す目印ではなくなった。 こうした文化におけるポピュリズムは止まることを知らない。この際限なき領域侵犯性こそキッチュの最も根源たる有害性である。それは第一にグローバリゼーションである。
キッチュは都市に留まらず、農村にも広がり、フォークカルチャーを消し去った。また国境や文化的境界も無視する。西洋工業化の大量生産物として、世界中を席巻し、先住文化を圧迫・損なっている。その結果、世界初の普遍的文化になりつつある。中国人も南米インディアンも、ヒンドゥーもポリネシア人も、自国の伝統芸術よりも雑誌の表紙やロータリー印刷、カレンダーガールを好むようになった。
そしてキッチュとは勿論消費を起源とするからして、商業社会における恩恵を供給する。すなわち莫大な利益である。これは国境だけでなく、本来的な文化圏までもの侵犯を試みる。
こうしてキッチュへ迎合してしまったが最後、文化は怒濤に転げ落ちる。なぜならば、文化の本来性に宿される抽象的で複雑的な価値は淘汰され、消え失せてしまうからに他ならない。
一般の人々は、形式主義や抽象表現を避け、理解しやすい現実主義を好む傾向がある。(...)例えば、無知なロシアの農民がピカソとレーピンの絵を比べる場合、ピカソの抽象表現は理解しにくく、即時的な楽しみを与えない。一方、レーピンの写実的戦闘画はすぐ理解でき、物語性や劇的表現が感情的共鳴をもたらす。農民にとって価値あるものはレーピンであり、ピカソやアイコンには価値を感じない。キッチュは観客に「容易な楽しみ」を提供する。文学でも同様で、キッチュは感受性の低い人々に対し、真剣な文学よりも即時的な代理的体験を与える。結果として、エディ・ゲストや『インディアン・ラブ・リリックス』は、エリオットやシェイクスピアよりも詩的であるとされるのだ。 しかし、同時にそうした本来的な文化を守るべき布陣は、アヴァンギャルドとしてモダニズムより先鋭化されてしまった。それはオルテガが『芸術の非人間化』でいうように「新芸術は芸術的な芸術(arte aristico)なのである」。すなわち旧来は神話や宗教、物語や歴史的事件などを主題として扱っていたのに対し、芸術はある種専門化=純粋化し、主題と文脈と解釈に関する多分な能力を持つものにのみ可能な「芸術的芸術(arte aristico)」と化してしまったのだ。 アヴァンギャルドの自己特殊化、すなわち最高の芸術家が「芸術家の芸術家」であり、最高の詩人が「詩人の詩人」であるという事実は、多くの人々を疎外した。大衆は発展の過程で文化に無関心であり続けてきたが、今日、この文化は実際に所有すべき支配階級によっても放棄されつつある。アヴァンギャルドにとって社会的基盤と安定した収入源が不可欠であり、それはこの支配階級の一部によって提供されたが、アヴァンギャルドは常に金のへその緒で結びついている。逆説は現実である。(...)前衛自身はすでに危険を感じ、日に日にますます臆病になっている。学究主義や商業主義が奇妙な場所に現れるようになった。これは一つのことを意味する: 前衛は依存する観客——裕福で教養のある観客——に対して不確かになっているのである。