オルテガ
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フランス人のための序文
人は時代が直面する問題に取り組む義務がある。これには疑問の余地がない。そして私は生涯を通してこの義務を果たして来た。私はつねに時代の弁護に回ってきた。しかし近ごろよく人びとが口にすることの一つに―「時流」―ということがある。これは明晰なる知的活動を犠牲にしても、すべての人が厳密な意味における sensu stricto 政治に参加しなければならないということである。もちろん、他に何もなすべきことを持たない連中がそう言っているのである。しかも彼らは、パスカルから「愚鈍化」 abêtissement という至上命令を引用して、その立場の強化を図っている。しかし私は、誰かがパスカルを引用したら用心すべきだということをかなり前に学んでいる。それは、精神衛生の基本的な注意なのである。全面的な政治運動、つまりすべての物事や、すべての人びとを政治の内に吸収してしまうことは、この本で述べている大衆の反逆という現象とまったく同じことである。もっか反逆している大衆は、宗教心や認識力をまったく喪失してしまった。大衆が自己の内面に持つことができるのは、ただ政治だけである。つまり、知識や宗教や知恵 sagesse―要するに、その実質から人間の精神の中心を占めることのできる唯一のものにとって変わろうとするあの途方もない、熱狂的で、我を忘れた政治だけなのである。政治は人を孤独と親密さから解放する。それゆえ、全面的な政治運動の布教は、人を社会化するのに用いられる一つの技巧である。 /icons/白.icon
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良きにつけ悪しきにつけ、大衆とはおのれ自身を特別な理由によって評価せず、 「みんなと同じ」であると感じても、 そのことに苦しまず、他の人たちと自分は同じなのだと、むしろ満足している人たちのことを言う。~自らに何ら特別な要求をせず、生きることも既存の自分の繰り返しにすぎず、自己完成への努力をせずに、波の間に間に浮標のように漂っている人
大衆の起源
自由主義デモクラシー、実験科学、産業主義により