カミュ
1939『Noces』(引用)
Le monde est beau et hors de lui, point de salut.
1942『シシューポスの神話』
多くの人びとが人生は生きるに値しないと考えて死んでゆくのを、ぼくは知っている。他方また、生きるための理由をあたえてくれるからといって、さまざまな観念のために、というか幻想のために殺しあいをするという自己矛盾を犯している多くの人びとを、ぼくは知っている(生きるための理由と称するものが、同時に、死ぬためのみごとな理由でもあるわけだ)。だからぼくは、人生の意義こそもっとも差迫った問題だと判断する。この問題にどう答えるべきか。あらゆる本質的な問題について、─本質的な問題とは、ときにひとを死なしめるかもしれぬ問題、あるいは生きる情熱を十倍にもする問題をいうのだが─おそらく思考方法はふたつしかない、ラ・パリス的な思考方法とドン・キホーテ的な思考方法とである。このふたつのもの、つまり自明性と抒情的態度との均衡によってのみ、ぼくらは感動と明晰とに同時に到ることができる。それゆえ、じつに目だたぬものだが同時に悲痛きわまるこのような主題においては、精緻な学識にもとづく教壇的弁証法は、良識と共感との両者から発するより謙譲な精神の態度に席をゆずらねばならぬことがわかるのである。
この「人生の意義(...)においては、精緻な学識にもとづく教壇的弁証法は、良識と共感との両者から発するより謙譲な精神の態度に席をゆずらねばならぬことがわかる」という言明はショーペンハウアーが象徴している。ショーペンハウアーは「ご馳走をいっぱいならべた食卓につきながら自殺を讃美していた」ように、「人生を拒否するにいたるほどまでに自己の論理をつらぬ」けなかったのである。カミュは次のように断言する。
生に意義をあたえることを拒んだ思想家たちのうち、文学の領域内のものであるキリーロフ、伝説から生れたペレグリヌス、仮説に属するジュール・ルキエを除いては、この人生を拒否するにいたるほどまでに自己の論理をつらぬいたものはただのひとりもないのである。
フランツ・カフカ論
1943『フランツ・カフカの作品における希望と不条理』
カフカの芸術のすべては読者に再読を強いるところにある。
カミュはそういって本稿を始める。「再読を強いる」とはなにを指すのか。カミュによると「カフカの作品における問題の解決のされ方、というか解決の欠如」には「さまざまな説明を思いつく」ように、「ときには二通りの解釈の可能性」あるように著者によって企図されているという。それゆえ「読者に再読を強いるのだ」。だが、カミュは「カフカの場合、作品の細部にわたってすべてを解釈しようとのぞむのは間違いであろう」とする。なぜならカフカの作品が表現するのは特定の読み方による一つの主題ではなく、作品全体で表現された「象徴」だからである。
象徴というものはつねに全体としてあるのであり、それをいかに精密に言葉に置きかえてみたところで、芸術家にできることは、その象徴の動きを復原することだけだ。つまり逐語訳というものがありえないのである。それにまた、象徴的作品ほど理解しにくいものはない。象徴というものは、つねに、象徴を用いる人間を超え、その人間が表現していると意識している以上のことを、実際にはその人間に語らせるものである。この点からいって、象徴を把握するもっとも確実な方法は、象徴に正面から挑みかからず、統一をあえて避けた精神をもって作品にすこしずつとりかかり、作品のひそかな底流など求めようとしないことである。とくにカフカの場合は、かれの作品の書き方に同意し、表面に現われたものからドラマに接近し、形式から小説に接近するのがしかるべき態度なのである。
1951『反抗的人間』
歴史の発展のために人の血が流され、進歩的暴力の名の下に暴力が容認されることに疑問を提示する
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ellf/25.26/0/25.26_KJ00002503484/_pdf