知的生産を支える情熱と憤怒
経緯
発端のツイート
パッションがある知的生産者とパッションがない知的生産者、憤怒で動く知的生産者と憤怒では動いていない知的生産者、という空気の違いがあるかもしれないとふと思った。
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パッションとはこの場合「知的生産そのものに対する情熱」のこと(自己の成熟を希求する情熱はまた別)
「オラオラオラオラァッ目に入るもの全部言語化するぜぇ哲学するぜぇ!!」というのがパッション強い型のイメージ
自己から離れた概念についても思索の対象になる
能動的・創造的
誰かが書いたものを見て自分はどうかなあ、どう感じるかなあ、と考えるのがパッション弱い型のイメージ
主に自分を通した認識が思索の対象になる
受動的・反応的
憤怒とはこの場合「この世にはどうして他人の邪魔をする人間がいるのか!」という種の憤りのこと
世の事象にまず強い不快感と怒りを覚え、その解消のために考えるのが憤怒で動く型のイメージ
個人の感情としての怒りではなく、信念に基づく義憤による
憤怒で動くタイプも別に常に憤怒が動機になるわけではない
常に憤怒で動くタイプは「知的生産をする人」とは別のカテゴリになってしまう気がする
世の事象に諦観は覚えても、「こうなったら良いだろうが!」という怒りを表現しようとはしないのが憤怒では動かない型のイメージ
他者に変化を求めるより「自分はどうするか」や単に「世界はこうなっているらしい」という事実を追うタイプ
なお、自分に「あなたはなぜ知的生産をするのか?」と問うならば、私の場合は「何かしら困っていることがあり、それを血肉化される形で理解したいから」ということになります。「困っている」の部分集合として「憤怒」が含まれます。私は困っていないと動機が生まれないので、知的生産そのものに対するパッションは自分の中には感じられません。
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知的生産のベクトル
知的好奇心に従ってのものなのか
人生の拠り所を欲してのものなのか