エゴサーチはまずいのか
前提
他人がどう考えているかより、自分の記事に言及があるかどうかに天秤が傾いてしまう
その他世の中にある承認欲求に関する無数の吐露
結論
エゴサーチがまずいような精神状態にあるときに、エゴサーチに浸ると、まずい
🤔以下個人の仮説
エゴサーチは承認欲求に囚われるきっかけになるからまずい、という話
承認欲求に囚われるとは何か
自分への言及を探して時間を空費する
そんなことに時間を使っている自分が情けなくなるので良くない
立ち止まったままになり自分にとって建設的でないので良くない
他人への嫉妬で心が濁る
心が濁っている自分を許せないので良くない
脳のリソースの配分が不健全で自分にとって建設的でないので良くない
エネルギーに変えられることもあるが…
認められようとして本意ではない表現行為をする
自分の痛々しさに苛まれるので良くない
取り繕った表現は自分にとって建設的でないので良くない
つまり
自分を嫌いになるから良くない
自分の人生を自分のために使えなくなるから良くない
なぜ「囚われる」のか
考えられる原因
承認してくれるべき人がしてくれないのを引きずっているから
親とか
配偶者とか
不安があるから
承認と関係あるかどうかは別にして絶対的に不安な環境にいる
高圧的な人間が近くにいる
監視社会になっている
経済的に不安
etc
社会的に圧力をかけられている実感がある
「○○らしくいなければならない」「○歳なんだからこのくらいの人間になっていなければならない」etc
比較対象が見えるところにいる
「それに比べて自分は」という発想が浮かぶ環境にある
暇だから
例えば「推し」への愛で生きている人はそんな暇を作らない(というケースがよくある)
自然や命と向き合う仕事などをしている人は毎日それどころじゃない
他には何があるだろう?
根本原因?
※以下は「囚われている自分」が自分にとって異常であるような感覚がある場合の話
囚われるということ自体を解決すべき問題と感じないなら別に考えなくていいのかも
「何か原因がある」と考える必要がないパターンがある可能性
そもそも自分を嫌っている
ある条件を満たさなければ自分に価値がないと感じている
常に褒められていなければ存在意義がないと感じる
常に「自分は正しい」と確認できないと自分の存在が誤りのように感じる
褒められた・認められた経験が乏しく自分の存在が希薄
誰かにとって自分は「いてくれなきゃ困る存在」なのだという実感がない
でもこれは別に必須ではないか?
あるいは自分を「誰かにポジティブな影響を与える存在」と感じていない
生活上の不安がある
自分以外の存在または環境から脅かされている状態にある
厳しさに耐えるために自分を慰める快感を求めており、そのうちの一つが承認される快感
自分以外の存在にありがたみを感じる余裕または意思がない
例えば他者から脅かされていたために身を守ることで精一杯だった
武器や盾になるもの以外のものに意識を向けたことがあまりない
「そこにある」ということ自体がただただありがたい、という気分を得る機会が乏しい
「好きなもの」もついつい武器や盾にしようとしてしまう
いちいち武器や盾にしなくても大丈夫だという安心感をなかなか得られない
例えば自分より愚かっぽい人間から不快な思いをさせられた
自分はそいつらよりまともだと思う
自分は絶対に愚かではないと証明せずにはいられない
自分より頭が良さそうな人間の存在を感じると「自分は愚かな側なのかもしれない」と恐ろしくなる
例えば自分が大切に扱われた記憶がない
自分が大切に扱われていないのに他人を大切にする理由がない
他人は常に侮って然るべき対象と感じる
他人の個性を配慮しなければならない意味がわからない
どうすれば?
(ここまで考えたことがある程度妥当だと仮定して)
というかとりあえず私はどうしたか?
ものすごく苦しい時期があった
自分は賢く真っ当であると証明したがった
自分は馬鹿のせいで不本意な人生を強いられている被害者だと感じていた
(そういうことを思う自分こそが馬鹿っぽい)
関連
その後自分の中で他者の影響力を下げていった
親はただの人間
周りもただの人間
自分もただの人間
そもそも人間ごときがどう優劣を語っても人間は人間
自分も変だし、自分以外の全ての人間も変
自分も愚かだし、自分以外のほぼ全ての人間も愚か
稀にどう解釈しても愚かさが見当たらない人もいる
そういう人はすごい! そういう人についていこう! と思う
自分以外も一人分の人間だし、自分も一人分の人間
一人分はある
一応ある程度健全化された気はするが
しかし、一度健全化すれば不可逆的に健康でいられるものではない
何かあればまた承認欲求の支配下にくだってしまう
そうなる誘引要素がいくつもある
エゴサーチはしないのか?
いや、する
するけど、以前より淡々としてる
言及されていないと嫌だ!不安だ!ではなく、言及されていると嬉しい
嬉しいのは良いことなので、探索する
しかし無反応が続くとつらい
つらさには波があるが、かなり周期が細かいので、お腹の減り具合とか室温とかそういうのでも影響を受けている気がする
つらいのはつらいので、そういうものと思うことにした
人間だもん
精神が健全でもそれは誰しもつらいと思う
これ以上どう健全化しても「つらくないよ!」と言えるタイプの人間にチェンジできる気がしない
かといって「反応されそうな表現」に切り替えてしまうともっとつらくなる
↳「反応されそうな表現」に引っ張られずに表現を続けるには
自分しか書けないものを書く
…というのは、「自分しか書けないものとは」を考えた時に自己評価でまた苦しむので危ない
「自分しか書けない」というのは、書いた後に人からそう言われたり類似のものがなかなか現れないということによって感じるものであり、書く時に意識するのはそもそも難しい気がする
「自分しか書けない」などというものがあり得るのかという話にもなってしまう
これだけ人間が存在して「自分しか書けない」ってある?
掘れるところまで掘る
他の人が途中で飽きたり、忙しくて放置しているようなところをとりあえず掘る
全てを説明できるまで掘ってみようとする
「自分の内面」は自分にしか掘れないのでライバルがおらずやりやすいところ
(他の人が共感しうるように意識してやる必要はある)
自分が好ましく思うものの好ましさについて引かれるほど語る(書く)とか
他の人に引かれるほど書くことによって、他の人が惹かれるほど書いたことになる
疎ましく思うことについて徹底的に書く手もあるが、色々と良くないことが起こりすぎる気がするので、好ましいものを語ったほうが良さそう
「全てを書く」という意識を持つことによって、初歩だろうがなんだろうが全部書けるようになる
今更なことを書いてしまって侮られるのが怖い、という恐れから解放される(かもしれない)
既知だろうが周知だろうが全部書くんだよ!という強気の姿勢
一方で「最先端のもの」「みんなが知らないだろうこと」を書こうとすると行き詰まること多し
書こうとしなくても書いているうちに書けているもの(と信じる)
所感
承認欲求を「無」にするのは現実的ではなさそう
あくまで「承認欲求に振り回される」のがまずい
承認欲求を絶対に刺激しない、のも果たして可能なのかどうか
今は承認欲求に振り回される時期だから、と期間限定で耐えるなら可能かもしれないが
一生それを続けるのはもはやお坊さんの修行レベルでは
普通に俗世間に生きる凡人に可能だろうか
そういう強さをどうしても持てないから、苦しいとわかっていながらエゴサーチをするのではという気がしなくもない
試しに断ってみるというのは有効と思う
断ってみて楽になるなら、単に習慣づけの力でエゴサーチをしてしまっていたのかも
楽にならないなら、「断たねばならない」という苦行に意味があるのか一考の余地あり