のらてつ版「新しい時代の知的生産」考
前提
気持ち
「物的」でないという意味で「知的」、「消費」でないという意味で「生産」、その結果が「知的生産」としたときに、現代ではグラデーションが広すぎるという感じがする
消去法的で、ズバッと定義できない
しかし線は引きにくい
情報を扱うということのうち、「存在はしているが、まだ一般的ではない営み」に光を当てたのが梅棹忠夫氏の『知的生産の技術』だったとすれば 「情報を扱うことは、今工業がやっているような意味で「生産的」になりうるんですよ」とプロモート(いっそアジテート)した言葉が「知的生産」なのだと捉えれば
今その位置にあるのは何か
私は「メタ認知」のような気がしている
考えてみる
知的生産が果たす役割の変化
神が死に、個人の時代がやってきて、その個人も不完全さに満ちているとわかってしまった後の「知的生産」とはどのような意味を持つのか、といったこと。
そして
梅棹忠夫における知的生産活動の社会的な意義は、社会への参画だった。
ここから思ったことは
個人が目指す「ステージ」が、梅棹忠夫の時代は「社会」だった
平成は(常に「社会」はステージでありつつも)「個人」がステージの現実的な選択肢に加わった
令和は更にある種の脱社会(というか脱共同体)が進み、ほぼ「個人」がメインステージになっている(という見た目をしている)
ならば知的生産は?
昭和:個人が社会に接続するもの
「社会にとって、あなたの考えは価値になり得るんですよ」
平成:個人とはなんであるかを意識しながら社会に接続するもの
「社会にとって価値になることと、あなた個人の自己実現とは両立し得るんですよ」
令和:個人が社会との接続を目指さずに存在するもの
「あなたという存在そのものが、社会を通さずとも他の誰かの価値になり得るんですよ」
というイメージがある(ろくに調べていないので、ほぼ偏見である)
つまり何が変わったっぽい気がするのか
「社会にとって」が要らない時代になりつつある
つまり、「客観的価値」の「客観」の意味が変わった
「誰かにとって」の時代
そして、自分と似た誰かが必ず存在するとなれば、「自分にとって」が「誰かにとって」と一致することが普通にありうる
もちろんより多くの人に影響を与えるには、「誰か」に含まれる数をより多くしていく必要がある
アカデミックでない知的生産領域の爆発的な拡張が起きたのでは
社会にとってはアカデミックでなければ価値があるとは言えない
個人にとっては別にアカデミックかどうかはあまり関係がない
アカデミズムに則っていることは「価値がありそう」感を高めはするが、必ず要請されるわけではない
「誰かにとって」を自動的に満たすものとして「自分にとって」を追究する時代
そこには「メタ認知」が必須ではないか
「誰かにとって」を満たすために、「自分」を知らなければならない
知的生産自体は誰かの評価を必要としないが、知的生産が価値を生むためにはよりレベルの高い理解が当然に必要
つまり、より「自分」を知っている人間の知的生産が人々に求められる
「人々」とは、「個人の複数形」であり、「社会」ではない
少し脱線するが
今になってHSPというワードが広まっているのは、「弱者に光が当たり始めた」というだけでなく、「HSP的人間こそが力を発揮する時代が来ている(のに、当人たちが抑圧されている悲劇)」という流れがあるのでは
「知的生産」は何かに言い換えられるか?
「物的」の対義語を「知的」ではなく他の言葉にすることはあり得るかもしれない
思いつくかというと何も思いつかない
そもそもの定義を考えると
・頭を働かせて行う行為
・あたらしいことがら(情報)をあつかう
・他の人に理解できる形でアウトプットを行う
「頭を働かせて行う」が必要なので、例えば「情報生産」はなんか違う
結論として
良くも悪くも、「社会にとって」を通り越して「誰かにとって」が価値を持つ時代になった
アカデミズムの危機
しかし知的生産はアカデミズムのためにあるのではない
あくまで「人間のため」である
よってアカデミズムの危機を尻目に、非アカデミズムの文脈で知的生産は隆盛する
具体的に知的生産に於ける根本の態度はどう変わるのか
昭和:個人による
一個人が生産すること自体がすごい
平成:個人を混ぜ込む
一個人の人生を絡めていいのがすごい
令和:個人そのもの
一個人で完結していいのがすごい
もちろん、昭和的知的生産と平成的知的生産はずっと継続している
更に令和的知的生産の在り方が新たに「市民権を得る」という形
新たにと言っても、エッセイは昔からある
しかし、「くすっと笑える」みたいな少し規模の小さめな世界だった印象がある
令和という時代でのそれは破壊的な威力を持ち得る
威力を持ち得るとなれば、みんなそこを開拓しだすだろう
過去の知的生産が淘汰されることはないが、「新たな知的生産」とは何かを考えるなら、個人が舞台になるものではないか
「メタ認知」がターゲットになるとは
こういう自分がいて、メタ的に見たらこうであるとわかった、という個々人の自己研究
また、その手法
「メタ認知」が気持ちいいこととして「誰もがやろうとする」ものになっていく日が来るか
正直なところ
もしそうだったら私が救われるという個人的な願望が大いに含まれている