「知的生産」の言い換えが思いつかなかった理由
長年rashita.iconは「知的生産」という表現に違和感を覚えて、その言い換えを模索してきた。現状は知を営むという表現が、その代替候補に上がっており、それを本プロジェクトで探究している。
では、なぜ言い換えが思いつかなかったのか。それは言葉の意味を点として捉えていたからだ。
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この点を示すものとして「知的生産」という言葉を捉えれば、ここからの言い換えは常に微妙なズレをはらむ。それは許容できない。
しかし、梅棹忠夫という人間が、あの時代において「知的生産」という言葉を持ち出した、という出来事に注目すれば、その言い換えはもっと自由度を増す。 つまり、情報技術があまり普及しておらず、そのためのガジェットも不足した状態で、ようやくテレビ産業というものが花咲き、ワープロやカメラなど個人が所有できる情報操作端末がまだまだ高価ながらも入手可能になってきた時代背景において、これまで生活の中で、意識して情報を扱ったことも少なく、また情報を消費して終わりにするのではなく、自分で何かを発信することに不慣れな人たちに向けて、「情報を扱うことは、今工業がやっているような意味で「生産的」になりうるんですよ」とプロモート(いっそアジテート)した言葉が「知的生産」なのだと捉えれば、そのアジテートのベクトルを、現代社会に生きる人に向けて放たれる言葉が、知的生産の言い換えとして機能するだろう。
たとえば、rashita.iconは以下のようなことを簡単に断言できたりはしないが、
テレビとインターネットのせいで「世の中には自分よりすごい人が沢山いる」ということを意識させられるけど、別にかれらと戦う必要はなくって、まずは「苦手じゃないこと/やっていて苦じゃないこと」で近くの人を喜ばせるということを続けていれば、自然と食べていけるだけのスキルは身についていく。
しかし、だからといって厳しいことを言っていれば良いというわけでもないだろう。
厳しいこと=正しいことを言っておけば、「自分が間違ったことを言う」ことは回避できるが、しかしそれは誰の助けにもならない可能性がある。
むしろ、オンラインサロン的なものの無謀だとも思えるほどのアジテートに嫌気が差して、そのアンチとして何もアジテートすることを拒否する姿勢があって、それは極めて選択肢を狭めていると感じる。
このように知らない間に、rashita.iconも梅棹忠夫を論じることができるようになってきている。 たぶん、このCampでのやり取りが大きいだろう。