新しい時代の知的生産のために
『現代思想の源流』という本の末に「新しい時代の知的生産のために」というタイトルの文章が収められているのを見かけた。 これまでrashita.iconは、現代における知的生産を情報社会(ないし高度情報化された社会)における営みとして捉えていた。デジタル化とインターネット化によって、情報生成・情報発信の意味合いが変わる、という論点だが、しかしその変化は異質なものへのシフトというよりは、既存のものの強化、という側面が強い。
一方で、現代思想の観点からみた「今の時代の知的生産」という点は考えたことがなかった。
モダン、ないしポストモダンにおける知的生産
たとえば、「大きな物語」と知的生産の関係は考察したことがない。一つのフリースペースになっている。
闇の知的生産?
「闇の自己啓発」を拝借して「闇の知的生産」的なものもぶち上げられるだろう。生産のための生産ではなく、享楽としての生産と、そこから結果的に生じる変身について。
神が死に、個人の時代がやってきて、その個人も不完全さに満ちているとわかってしまった後の「知的生産」とはどのような意味を持つのか、といったこと。
梅棹忠夫における知的生産活動の社会的な意義は、社会への参画だった。
その見通しは極めて正しい一方で、梅棹は2020年付近のネットの状況を想定していただろうか。
情報化が進むという点は正しくても、もっと牧歌的な情報社会像が想定されていたのではないか
bot、botと変わらないような投稿、フェイクニュース、炎上、SEO特化のコンテンツ
こうしたものが跋扈していること自体、梅棹の視点に何か欠落があったのではないか、という論点にはなりうる
nora.icon知的生産には「準備」が必要で(あるいは「覚悟」または「責任感」もしくは「誇り」が必要で)、知的生産とはそれらを備えている人間のフィールドであることを想定していたのかなと感じました(憶測)
nora.icon情報の「広がり」はイメージされていても、「速度」はイメージできなかったか
nora.iconあと現代は「知的生産」と「知的消費」の距離があまりにも近い感じがする
異文脈交流の重要性
「わかるように書くこと」で鍛えられる力