ハビトゥスと性別分業
江原の性支配論は、従来の家父長制理論の限界を踏まえ、ブルデューの再生産論やギデンズの構造化理論を導入することで、性支配をめぐる新たな理論を提示した重要な著作である。 しかし、江原の 「ハビトゥス」 や 「実践」 概念は、性支配の再生産メカニズムを説明するのに十分なものではない。 江原は、性別分業体制がうみだしたジェンダー・ハビトゥスにもとづく実践が、「社会的地位の格差」を再生産するとし、また「実践」を構造化する規則を、「場」の規則ではなく、「言語的諸規則」に求める。こうした江原の理論では、ジェンダー化されたハビトゥスがなくとも、〈職場〉における「資源」の配分状況(場の規則)によって、性支配が再生産されるメカニズムについて論じることができない。本稿では、「実践」 を規定する要因として、ハビトゥスだけではなく、資源の不平等な配分など社会的地位の男女間の格差に注目する必要性を考察する 1. はじめに
最も難しい課題であり、最近は言及されることが少ない
本稿は、江原の性支配論の到達点と課題を考察
2. 家父長制から性支配へ
江原の議論の特徴 : 家父長制ではなく性支配という概念で男女の権力関係を説明しようとする視点 『ジェンダー秩序』 より
ジェンダー秩序 : 『男らしさ』 『女らしさ』 という意味でのジェンダーと、男女間の権力関係である 『性支配』 を、同時に産出していく社会的実践のパターン 女性たちが家父長制と呼んできたものは、性支配を意味しているのではないか 3. 江原流 「構造モデル」 の到達点と課題
議論の出発点 : 「ジェンダーが権力を内包している」 という仮説
本稿で取り上げたい論点
江原はハビトゥスを 「行為者の生涯においてあまり変化しないものとして把握する危険性がある」 と指摘する が、その後、特にその点に触れずに、江原はハビトゥスを積極的に理論に組み込む → 江原のハビトゥス受容は、性支配論を説得力のあるものにしているか? デギンズもブルデューも、実践 (pratique) を 「(ハビトゥス × 資本) + 場」 として定義している
が、江原は資本や資源という概念を立てずに実践における権力を説明している
→ 性支配の説明として成功しているか?
江原は、性別の変革可能性の否定や、現実の社会の変革可能性の否定を避けたいと考えている
が、「行為者の生涯においてあまり変化しないものとして把握する危険性がある」 ハビトゥス概念を用いて、変革可能性を担保するジェンダー化された主体の選択能力を論じることはできているか?
4. ハビトゥス概念の位置づけ