文章というメロディを書く・読むということ
@jiro6663: AIが書いた小説はもう読みたくないと審査委員が辞退した話。AIが書いたものを読んで徒労感を覚えてしまう人にとっては、レポートでも小説でも「読む」という行為が誰かとの対話だったという事なんだと思う。人だと思って一生懸命話しかけて耳を澄ませていたら、それは風に揺れる葦だった、みたいな感覚
こういうことなんだよな。「書かれたものを読む」という行為に、自己表出の出会いとしてその価値を見出している人にとっては、けっこう耐えがたいことなのだと思う。レポートなり論文なりであっても同じ。
「それは書かれているが、誰もそれを書いていない」ということの気持ち悪さをまだ意味づけられていない。
外化された言葉の背後には、それ以前にそれとは比較にならないほどの内なる言葉や言葉以前のものがあるはずで、しかし機械学習は外化されたものの統計的な関係性しか学習できないので、そこにはあまりに大きな隔たりがあるという気がどうしてもしてしまう。
これからは言葉そのものではなく編集や選択のありかたに自己表出性が生まれるということなんだろうな。その意味で個人がものに反映される。
これまでだって個人の思考は「偶然に出会った他者」や「偶然に出会ったモノ」のコラージュであったのだろうから、なにか本質的に変化したわけではないということなのかな。
ただ、その「偶然に出会うなにか」の与えられかたがあまりに違う。これまでとは、その偶然性の密度と、出会いかたの主体性のようなものが、あまりに違う気がする…
「偶然に出会う何か」の形式的な「整い具合」もまた大きく違う。これが大きいかも。「もうできてる」と思ってしまう。そこからの構築のプロセスが浅い、あるいはない、ということになると、そこに編集や選択の自己表出性が生まれなくなる、ということか。
たとえ「ポン出し」であっても、そこには選択という行為が(どれだけ薄くても)ある。ただ、選択の背後にあるはずの「その人にとっての価値」のかたちが、あまりに薄っぺらく見えてしまうことに悲しさを感じてしまうというのが、AI生成物に対するもやもやの正体なのかもしれないな。
この編集や選択のありようはグラデーションであって、このグラデーションの幅がかつてないほど広がってしまったというのがアフターAI時代ということなのか。
まだまだ整理しきれていないけど、こういうふうに考えるとちょっと個人的に腑に落ちつつあるかもしれない。
@michioshusuke: 「読みやすい文章」を書くことは「いいメロディ」をつくることとよく似ていて、ただテクニックを詰め込んでも、自分が気持ちいいだけでも駄目なんですよね。
めちゃくちゃわかる。そして、その意味で、文章は「その人にしか出てこないメロディ」なんだな。そうかそうか。だから、「自分の言葉で文章を書いてほしい」というのはつまり、「あなたのメロディを聴かせてほしい」ということか。
読みやすくなくてもいいので(つまりへんてこなメロディでもいいので)あなたを見せてほしい、という感覚。
これっていわば「理科系の作文」的なものであっても滲み出ると思うんですよ。
生成された文章はまさに自動作曲のメロディだな。これは比喩でなくそうなのかもしれない。
何年か前から、論文であってももっと自己表出の入った論文が書けるようになりたいな、という漠然とした思いがずっとあったのだが、ぼくは自分なりの曲が書きたかったのか!
話すというのは歌うことであって、書くというのも歌を書きつけることであって、読むことで歌を再生している。漫才とかにしても、あれは曲なんだよな。
こういう意味でも、AIの評価関数に、本来的な「気持ちよさ」は入れようがないんだよな。「気持ちよいとされているもの」を学ぶことはできても、主体として気持ちよいと感じているわけではない。
ただ昨日書いたように(→AIと切なさと評価関数と)、「AIにとっての死」の概念が生まれたら、「快」もまた生まれるのかもしれない。それは人間のそれとは違うものかもしれないが。
今日書いたことをLLMに投げたらあっという間にブログ記事みたいなものを書いてくれるだろうけど、それは僕の書くメロディにはならないのだよな。たぶんそれが気持ち悪くて気持ち悪くてたまらなくなる。
まあ融通がきかないというか頭が固いというか古いというかなんだけど、こういう感覚はなかなか消えないだろうな。でもたぶんどこかで受け入れていく部分も必ず出てくるだろう。出てくるであろう。少しずつ少しずつ。もっとたくさん生きて、いまのこの感覚を読み返してみたいな。
時間的な効率だけで見ると、もうこれはきっとだめになっていくだろう。わかりやすい旧世代の化石になっていく。なんのプライドにすがっているのか、と見られることだろう。
でもやっぱりそうやって生きていきたい感じはあるな。しばらくはあるだろうな。そういう意味でも、こういうツイートとか、日記とかを、これからはもっとやって残していこう。
温かい湯船に浸かりながらぼんやりしていると、自分の内に言葉ならざるものが渦巻いていることがとてもよく感じられた気がした。吉本のいう言葉の幹と根は沈黙、ということの意味をおそらく自分はきちんと理解できていないが、その一端を自分なりに感じた気もする。
LLMには「沈黙という活動」が存在しない、のだろう。沈黙という動的なプロセスが。
梅棹忠夫の情報産業論での、内胚葉:農業→中胚葉:工業→外胚葉:情報産業、のモデルで、表出される言語は外胚葉の機能であるのに対し、沈黙は内胚葉や中胚葉の活動を含んでいるということなのかもしれないな。自己表出はそこに近いもの。LLMには決定的にそこがない。
#雑記
2026/4/17のX(twitter)をもとに