成績評価と総括的評価と形成的評価と生涯学び続ける云々
以下、生煮えの考え
この総括的評価は、何を意味するのか
とりあえず、何らかの評価規準/評価基準のもとで、妥当に測定できるという前提での話として。。。 その「授業終了時点(測定時点)」ではたとえば「B」に相当するほどできていたとして、それはどの程度持続するのか
半年後に同程度できる?
たぶん無理
一年後には?
たぶんほとんど忘れてる
結局、いち授業の成績評価というのは、「その授業期間中」の短期的な成果のみしか測れない
当たり前かも。。。
卒業時に、授業終了時と同等の知識・能力が維持できているとは限らない
多くは下がっているだろう
逆に、その後のプロセスによって上がっていることもあるだろう
とすると、成績証明書に並ぶ成績の記号は何を意味するのか?
その記号は、それが示すであろう知識・能力の程度が「いまも維持されていること」を担保しない
「Aがとれる人は、Aがとれるだけの努力ができる」みたいなことは言える気もする
あるいは「求められる到達点に一定期間のうちにたどり着くための総合的な力(人の力を借りる、なども含む)」とか、「もともと身についている力」も入っていたりする
これらは本来、成績が測りたかったものだろうか?
個々の成績はその授業の終了時点での学習成果(学習内容が身についている度合い)を測っているものの、時間が経つにつれてそれが示す「学習内容が身についている度合い」は信頼性を失っていく ただし、その集合体としてのたとえばGPAなんかは、その学生の「努力できる力」あるいは「求められる到達点に一定期間のうちにたどり着くための総合的な力」もしくは「もともと身についている力」みたいなものの複合的な度合いを、やんわりと示すのかもしれない たぶん、それはそれでいいのだと思う
ラーニングアウトカム重視で成績評価の厳格化、という文脈もあるが、上のようなことがあるので、成績によってラーニングアウトカムを厳密に可視化するというのは無理がある気がする 成績評価された直後から、ラーニングアウトカムのようすは刻々と変化していくはずだから
とすると、成績の意義というのはどういうものになるのか
成績ってそもそも必要?
余談ながら、「全員A」みたいな極端な成績評価のしかたがされる場合も少なからずあるが、成績評価のことを誠実にとことん考えた結果そうなった、ということもあるだろうな、とか
生涯学び続ける、ということを言うのであれば、成績評価というたった4ヶ月ほど(2単位であれば)の期間の1度きりの総括的評価よりも、「現時点でどの程度身についているか」を示す何らかの測定による形成的評価を「し続けること」が必要なのではないのだろうか ただ、それを測定し続けるのは無理がある
結局、自己評価ができるようにならないといけないのかもしれない そうすると、成績評価は「この程度の感じでこの程度の評価になる」という「ものさし」のようなものを外部からフィードバックすることでこの自己評価の力を高めるためのいちツール、という位置づけになるのかな? であれば意味がありそう
成績評価が形成的評価になるということ
ただ、そういう意味を持たせるには、何らかの意識づけのためのしくみが必要だし、各授業がそのつもりで成績評価をしないといけない
GPAというものの位置づけも変わる(!)
少しずれるが、レポートや試験(とくに授業最後の)を採点して成績をつける、というのがスタンダードな形だと思うけど、どういう評価を行ったのかを学生にフィードバックしないままだと、形成的評価の観点からは意味がないのかも、とちょっと思う
学生は、成績が発表されて初めて、とてもざっくりしたレベルのみを知ることができる
何がよくて何がだめなのかわからないから、活かしようがない
もし学生に詳細をフィードバックしないとしたら、その成績評価は誰のためのものなのか?
すごい労力をかけて細かく採点しても、フィードバックしなければ「中身がわからないざっくりしたレターグレード」か、「謎の一次元の100点満点の数字」しか学生は見れない(採点基準を事前に知らせていれば別)
いずれにしても、自己評価の力というのはきっとものすごく大事
それに気づけるようなうまいしくみを作れるときっといい
ルーブリックと、これに基づく自己評価・ピア評価・教員評価(・第三者評価)の活動のうまいデザインがきっとポイントだと思う 自分で形成的評価できる力が身につくような成績評価(およびその周辺)のありかた、というものを考えていけたら