自己表出と自己表出の出会い
なんだかいま盛り上がっている課題に生成AIを使って・・・の話は、2022年末の時点で見えていた未来にもう十分に追いついてしまった、ということだよな。 いまの形での総括的評価というものがある限り、解決しえない・・・ より根本的には、人間がいとも簡単に自己表出をAIに明け渡してしまうことにあるのだろうな。なんかもう止めようがない気もする。 このまえこの「芸術言語論」の書き起こしを読んでて、なんだかあらためてそういうことも考えさせられた。 「つまり、偶然のように、ある読者は、ある事を考え、偶然ある本を読み、そしたら、そこに書かれていることは、自分と同じようなことを考えてる人がいるんだなとを読者の人に思わせたとか、自分はこう思ったけども、(略)この人は、もっと奥を考えてるなということがわかったとか、そういう偶然と偶然の、それも、偶然と偶然と、しかも自己表現と自己表現が、たまたま出会ったときしか、文学芸術の感銘っていうのは、ないわけなんですよ。それ以外の力っていうのは、ないわけですよ。」 「ほんとに偶然と偶然の出会い、しかも、偶然の自己表出と、偶然の自己表出が、読者と作者の間に成立したときだけ、芸術言語の価値っていうことを言いうるんだ」
と、この講演自体が(映像も持っているが)吉本隆明の自己表出でできているように見えて、それと自分の自己表出が出会っているような感じで、じんわりとしみてくる。という幻想のようなものを感じてしまう。 いま娘が習い事をきっかけに初めて曲を作っていて、それがとてもいいんだよなあ。ほんとうに、娘の自己表出と自分の自己表出が共鳴しているような感覚があって、この世のどのような曲よりもすばらしいと感じる。 わかるよ、それ! というものの連続で。娘がこれまでの人生で得てきたものが、まだ短い人生ながらも熟成されて、剥き出しで表出してる感じを、どうしても受けてしまう。それが、自分の中にある凹凸と響き合っている、という感じがあるんだよなあ。
と、自分はそういう感じで表現というものを捉えて生きてきたんだなあ、というのが、いまの生成AIをめぐる世界中のもやもやを見ていると、よくわかってくるというか。
ひとそれぞれがもつ歴史をふまえた、ひとそれぞれの凹凸に価値があるんだろう、と、僕は思いすぎているのかもしれないが、「初手でAIに訊く」に慣れすぎると、その凹凸がもうよくわからなくなってくるというか。うまく言えないが、ずっとそういう感覚があるんだよな。 「そこは自分で考えようよ」というものの境界線が、どんどん許容する方向にじわじわ移動していってると思うんだよな。
これまでもググったりWikipediaをコピペしたりの問題は常にあって、それと同じだろう、というのは確かにそうなのかもしれないが、それとは質的に何かが違う気がしていて、それをうまく表現できていない。
以下は、今年お亡くなりになった東工大名誉教授、森政弘先生(全く面識ないですが)の約50年前の解説記事です。
自らの内側から湧き出す今後を
ああ、これは感じていることにかなり近いなあ・・・ 計測と制御の、僕の生まれる3年前に、すでにこういう文章があったのか・・・
関連: