創作の面白さと生成AI
結局自分は創作というものを、自分と同じ人間の脳というアーキテクチャから生み出されたものであるという文脈(というある種の幻想)を前提として、その差異と共通性からくる驚きと畏敬と共感に面白みを感じていたのだなあということが、最近の生成AIの生成物に対するノれなさからよくわかってきた。 これからはそういうのは古くなるんだろうかなあ。古い人間としては一抹の寂しみがある。
なんちゃら風に描く、みたいなのもそうだけど、人間がやっていたときは、描かれた生成物そのものだけでなく、そういうふうに描く人の心の動きを前提として楽しんでいたような気がするんだけど、なんかいまの騒ぎを見てると、そういうことでもなかったのかもしれない。
自動的に生成するなにか、というもの自体についても、これまでは、「そうしたプログラムを作った人の意図」に共感する面白みがあった気がする。そういう意味ではいまだって同じはずなのだが…自分は生成AIにそのへんの面白みを想像できてないのかもしれない。
このへんの感覚は早めに乗り越えないといけないんだろうけども。世の中の面白がり方そのものが変わってしまう恐怖のようなものなのかもしれない。いや、世の中が変わってしまうのではなくて、これまで特殊な面白がり方をしていただけで、そこから旅立たないといけないということなのか。
創作の面白さは創作の辛さと一体だと思う(思ってきた)のだけど、これからはプロセスそのものが変化して、面白さも辛さも別種のものになるのかもしれないな。
いや、でもやはり、「自分の身体(脳)だけでできるようになること」に対する価値が上がるのか。自分の中での相対的な向上にそれぞれが面白みを感じる。ときに、AIでブーストすることで壁の向こうを見ることもできる。みたいな。
しかしそれを本当に一人ひとりがのびのびとやれるかどうかは、評価という営みのあり方によるな。