生き急ぎ
CUMOT2018の懇親会で「生き急いでいるように見えるがそうなったきっかけは?」という質問があった。 「生き急いでいる」とは何か?僕は自分が生き急いでいるつもりはないが、第三者から生き急いでいるように見える、それはなぜか?(2022-09-19追記)
他人から「生き急いでる」と見えることと、本人の「生き急いでる」という実感とはしばしば食い違う。
半年経営して半年のんびりしてる人を「生き急いでる」と感じたりする。
「一年の間のエピソードの量」が多いと、他人は「生き急いでる」と感じる。
大企業の中などにいて周囲の人と同じ経験しかしてないと、語れるエピソードがあまりない。
これを比較対象にすると、のんびり経営してる人も生き急いでるように見える。
一方で大企業の中にいてもエピソードのたくさんいる人もいる。
こんな酷い出来事があった、事件があった、と面白おかしく語る人がいる。
「A課長ひどいよね」「ねー」という会話は他社の人に伝わらないので話されない。
一方、それを具体的な個人の批判ではなく、出来事として話すことができれば「エピソードがある」という状態になる。
つまり、自分がした経験を、立場が異なる人に伝える能力が影響している。
体験の抽象化能力。具体的な個人名とか、揉め事の相手の会社名は重要ではない。
体験の中の普遍的な構造を取り出すことが必要。
3時間経って考えが変わった
同じことを体験していても「私はこう感じた」とカラフルに語ることのできる人もいる。
人がそれぞれ違う認識。自分が人と違っていて、かつそれが肯定的に捉えられる場なら経験を表出できるのか?
キッカケは明確
で、生き急ぎの概念を整理しているうちに話題が変わってしまったのだが、最初にされた質問は「生き急ぐようになったキッカケは?」だった
少し考えてみた結果、意外と明確なキッカケにたどり着いた。現代アートだ。 9年も前のことなので僕の中でかなり消化と再構築が起きてて、どう書いてるのかは覚えてないが、僕はこの本から「現代アートとは歴史を作る作業だ」と理解した。 「歴史」という単語は解釈が分かれそうなので補足すると、歴史には学校で習うような特定の人に紐付かない抽象度の高いものと、個人に紐付いた「個人史」的なものがある 単なる事実の羅列ではなく、これが起きたからこれが起きた、というつながりになっている。
そういう意味では「歴史を作る」より「ストーリーを紡ぐ」の方がしっくりくるかもしれない けど、単なるストーリーと違うのは自由に作話できないこと
あくまで時間軸上に並んだ「実際の出来事」の上に乗っかったストーリーなのが重要
この本を読む前の自分は、今振り返って考えるとかなり刹那的に生きていた。 楽しいと思ったことをやり、やり終わったり楽しくなくなったらやめて次のことをする、という行動をしていた。
「自分が行ったこと、という事実を記録して歴史を作っていかなければならない」と考えるようになったことが、その後の「蓄積」行動につながった この本には「本を読んだらその本の良かったところを抜き出したメモを作り、何度も読み返して濃縮すると良い」という趣旨のことが書いてある
これもまた「面白いと思った本を読んで、読み終わったら終わり、ではよくない。メモを蓄積していくことが大事」と考えるきっかけになった。
そしてその状態で上記の現代アートビジネスを読んだ
ということは当時に書いたメモが残っているはずだな、と確認してみたらあった
アーカイブを作る アートを歴史化する作業 記録することで歴史を作る 有史主義を自覚的に実践する
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