明日死ぬかのように生き、永遠に生きるかのように学べ
Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever.
Variant on aphorism "Study as if you were to live forever. Live as if you were to die tomorrow" pre-dating Gandhi, variously attributed to Isidore of Seville (c. 560 – 636), in FPA Book of Quotations (1952) by Franklin Pierce Adams, to Edmund Rich (1175–1240) in American Journal of Education (1877), or to Alain de Lille in Samuel Smiles's Duty (1881).
文章としてはかっこいいが、そもそも「生きる」は「学ぶ」を包含する概念である。明日死ぬかのように生きている最中に「よし、永遠に生きるかのように学ぶぞ」と意思決定することはありえない。明日死ぬのだからそんな悠長なことをしている場合ではない。 永遠に生きることがありえない反面、明日死ぬことはありえるので、前半部だけ流通することがある。その場合、学ぶことの重要さが過小評価される。明日死ぬなら学びに時間を使わず、今持っている知識で行動すべき、となる。
明日死ぬ場合と、1ヶ月後に死ぬ場合では、行動に差が出る。前者を想定したら2週間かかる作業には着手しない。これは短期的なリターンを追い求めるバイアスを生む。 #短期 1日の行動で物事を自分が良いと思う方向に少しでも動かせる状況下では、「将来のこととか考えずに今のその『少し』のために全力を傾ける」という行動を生んで、その熱意の傾け方に周りの人はすごいなぁと感心するわけだが、だからと言って例えば自分の子供などに「明日死ぬかのように生きよ」と言ったらすごいことを成し遂げるかっていうとそうでもない。これは本人が大きな理想を持っていて、かつ自分の行動によってその理想に近づくという強い自己効力感を持っている状況でしか機能しない。
などを考えた結果、30代後半の今は個人的には「5年後に死ぬ」がちょうど良いのではないかと考えている。5年前には「10年後に死ぬ」と考えていた。もっと若い時にはもっと期間を伸ばすべきか?もっと年をとったらもっと短くすべきか?
数学的には「5年後に死ぬ確率が1/2」とかにすると、生きちゃうかも知れないので長期的な投資をする必要も残されたまま、死んじゃうかも知れないので成果を形にしてアウトプットしようという圧力もかかり、ちょうど良いのではないかという気もする。
期間を固定しない方が良いのかも知れない。期間が定められた場合にどうするかを考えることが、視点を変えることになる。明日死ぬと思う、1週間で死ぬと思う、49日で死ぬと思う、1年で死ぬと思う、7年で死ぬと思う、と時々切り替えて考えると良いのかも。