新蔵王権現入門
https://gyazo.com/25f1519dbbaa6a41aa65d51792843063
可愛い表紙だからカジュアルな解説かと思いきや、あとがきで「そこまで書いてしまっても本当に良いのだろうか」とか書かれているくらい色々書いてある、明治政府の神仏判然令とか。 著者・発行「総本山 金峯山寺」なのでWikipediaより信頼できる
ネット上で色々な人の書いたものを見るとスタンスの揺れがあるので「金峯山寺」という単一のスタンスから書いてあるのは読みやすいね
権現は仮の姿で現れること
蔵王権現の本来の姿は釈迦如来と観音菩薩と弥勒菩薩、融合して一体の変化身として出現したのが蔵王権現
だから三体の蔵王像がある
釈迦如来が過去、観音菩薩が現在、弥勒菩薩が未来であり、実はこの3体は同一
法華経 如来寿量品 で「ゴータマ・シッダールタは仮の姿で、無限の過去(久遠)に成仏した釈迦如来が衆生を導くために現れたのである」と書いてある これが金峯山修験の依って立つ経典
金剛蔵王権現の金剛は金剛界、蔵は胎蔵界、それを統べる王ということ 釈迦如来がといた教えが顕教
蔵王権現の中に諸仏、諸菩薩、諸天が含まれている
千人結縁潅頂
サンスクリット「アビシェーカ」の訳、「頂きにそそぐ」の意味
自分が仏であるという自覚を持つための儀式
香水を頭に注ぐ
天智天皇の治世(7世紀後半)
38歳の役小角が金峯山上(=山上ヶ岳)で修行をしていて、蔵王権現が出現した
吉野山が龍の尾、山上ヶ岳が龍の頭、金峯山はひとつの龍体
山頂に山上本堂を作ったが、それでは多くの人がお参りできないので、麓に山下の蔵王堂を作った それが今の金峯山寺
役小角
634年生まれ
namasの音写で「帰命(きみょう)する」という意味
うばそく
在家仏教
役小角が出家をしなかったため「出家は必要ない」という立場
出家と得度が切り離されている
得度をすると釈迦由来の戒法(戒律)を受けて、法名(受戒名)がつく
修験道は実修実験、修行得験の道
1100年忌(1799年)に光格天皇から神変大菩薩の尊号を賜る
役小角が修験道の開祖ではあるが、役小角が修験道を組織化したわけではない
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空海の若いころの著作とされる『三教指帰』/その草稿にあたる『聾瞽指帰』に、空海に重ねられる人物が「金巌」に登った、という記述があります。ただし「金巌=金峯山」は確定ではありません。別説として、愛媛県の金山出石寺に比定する説があります。
もう一つ、補助的な根拠として、空海が高野山開創を願い出た上表文があります。そこでは、空海が少年の日に山水を好んで巡り、吉野から南へ一日、さらに西へ二日ほど行ったところに高野がある、という趣旨のことを書いています。これは、若い空海が吉野・大峯方面の山岳地帯を歩いた可能性を支える材料にはなります。
弘仁7年(816年)、空海は嵯峨天皇に高野山の開創を願い出ますが、その上表文に
「空海少年の日、好んで山水を渉覧せしに、吉野より南に行くこと一日にして、更に西に向かって去ること両日程、平原の幽地有り。名づけて高野と曰う。・・・」とあります。
18歳で大学に入るが、儒教がしっくりこない
世のため、人のために一生を捧げようとして、み仏の道の修行を始められた真魚さまは、まもなく大学を去って、大峯山(おおみねさん)や阿波(徳島 県)の大瀧ガ嶽(たいりゅうがだけ)、あるいは土佐(高知県)の室戸崎(むろとのさき)などの霊所を求めて修行を続けられました。
20歳で出家
31歳で遣唐使として、後に天台宗を開く最澄とともに唐に渡る、真言密教を学び遍照金剛(へんじょうこんごう)の法号を授けられ、真言密教の第八祖となる
33歳で日本に帰る。その後、37歳で真言宗を開き(810年)、42歳で四国八十八ヵ所の霊場を開き、43歳で嵯峨天皇から高野山を頂く(816年)
後に2つの流れができる、本山派と当山派
吉野金峯山は、どちらにも属してない
なるほどな、袈裟に梵天がついてる人と輪宝がついてる人がいるね GPT5.icon
修験道の装束では、首から掛ける小型の袈裟を結袈裟と呼ぶ これは九条袈裟を山岳修行用に簡略化した、修験道独自の袈裟 天台系・本山派の結袈裟は、胸前や背中に梵天を付ける形式
真言系・当山派では、梵天の代わりに金属の輪宝を取り付ける
山形県の蔵王は、古くからの山岳信仰の対象
平安時代中頃には両部神道を唱える修験者が修行していた 吉野修験から蔵王権現さまを勧請して、蔵王山頂にある刈田岳神社と、麓の刈田嶺神社に併置したところから「蔵王」という呼び名になった 意外、蔵王という言葉のオリジンは金峯山側にあった
みたけもうで(御嶽詣, 御岳詣)
みたけそうじ(御嶽精進, 御岳精進)
山上ヶ岳に埋経
中宮彰子(ちゅうぐうしょうし)に息子が生まれて大喜び
源頼朝の追手を逃れて吉野に潜伏
義経千本桜、名前は知ってたけど、吉野桜や吉野の地名の「上千本」などとは結びついてなかったな 金峯山寺西側の金輪王寺を皇居にして南朝を立てる(1336)
後醍醐天皇の息子大塔宮護良(だいとうのみやもりなが)は鎌倉幕府軍と対決のため吉野で挙兵し蔵王堂に立て篭もる(1333) 境内にその時の石碑があるらしい、今度探してみよう
江戸幕府「修験道法度」(1613)
修験者は当山派か本山派かのどちらかに属さなければならない
天台宗の天海僧正が吉野に派遣され、輪王寺門跡による支配体制に
gpt5.icon翌1614年ごろ以後
徳川家康は大坂在陣の時、南光坊天海を金峯山寺の学頭に任じ、吉野の金輪王寺の寺号を日光へ移し、もとの寺を実城寺に改称したとされています。 つまり、吉野・金峯山寺という修験の中心地を、天台宗側、ひいては徳川政権に近い天海の系統へ組み込む動きです。 山伏の妻帯を禁止?
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仏教の出家者については、妻帯は戒律違反とされる建前がありました。浄土宗大辞典でも、出家者の妻帯は戒律違反であり、日本でも基本的には同様だったが、明治5年、1872年4月25日の太政官布告で僧侶の肉食妻帯が解禁されたと説明されています。
つまり、僧侶一般について言えば、明治に起きたのは「妻帯禁止」ではなく、むしろ妻帯解禁です。レファレンス協同データベースも、明治5年、1872年4月25日の太政官布告133号「自今、僧侶肉食妻帯畜髪等可為勝手事」が契機になったとしています。
一方で、特定の山・寺では、山内を「清僧」の場にするため、妻帯僧や修験者を山上から排除する措置がありました。
代表例として、相模大山では、徳川家康が大山寺改革を進め、慶長14年8月28日、1609年に寺院法度三ヶ条が出されました。そこでは、不動堂より上を「永代清僧結界之地」とし、妻帯僧・山伏・在家の屋敷を清僧側の管理にする趣旨が示されています。その結果、妻帯僧や修験者は下山させられ、坂本や蓑毛に住み、のちに御師として大山信仰を広めたと説明されています。
明治政府
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明治政府の宗教政策
神仏分離令は、単一の法令名というより、明治政府が1868年から出した一連の命令の総称です。
1868年3月17日の「神祇事務局ヨリ諸社ヘ達」から始まる
これらの命令が、仏教は不浄であるという過激な考えを生み出し、寺や仏像を破壊するなどの廃仏毀釈が全国に広がりました。政府は寺院や仏教を否定するものではないという触れを出しましたが、多くの人たちに仏教を否定する考えが浸透したようで、このときに全国の3分の2の寺が破却されています。柏原でも多くの寺が破却されました。その際に、寺院が所蔵する貴重な仏像や宝物が多数散逸してしまいました。 神仏判然令=狭義には1868年3月28日の達。神社から仏教的要素を除去させる命令
特に有名なのが、1868年3月28日の達です。
国立公文書館は、この資料を「神仏判然令」と言われるものとして紹介し、内容として、神名に仏教的用語を用いている神社の書上げ、仏像を神体としている神社から仏像を取り払うこと、本地仏・鰐口・梵鐘の取外しなどを命じた、と説明しています。
修験宗廃止令/修験宗廃止の件=明治5年9月15日、太政官布告第273号。西暦では1872年
1873年と混同しやすい理由は、明治5年末に改暦があったからです。明治政府は明治5年11月9日に太陽暦採用を公布し、旧暦の明治5年12月3日を新暦の明治6年1月1日としました。
通称として修験道廃止令とも呼ばれるが、法文上は「修験宗」を廃止する形
明治5年9月15日の太政官布告第273号では、法文上「修験宗ノ儀、自今被廃止」とされ、本山派・当山派・羽黒派を、従来の本寺所轄のまま天台宗・真言宗の両本宗へ帰入させる内容でした。JACARの件名でも「修験宗廃止本宗へ帰ス」として出ています。
制度的にはこうです。
修験宗という独立的・混淆的な宗教身分を廃止する。
本山派・当山派・羽黒派などの修験者は、従来の本寺関係をふまえつつ、天台宗または真言宗へ帰入させる。
帰俗、つまり宗教者をやめる者については、手続きを経て届け出させる。
ここで重要なのは、修験者を「神仏混淆の山伏」として存続させるのではなく、僧侶なら仏教宗派へ、神職なら神社制度へ、そうでなければ還俗へ、という形に整理したことです。
入峯修行
毎年同じ道を歩くので道が頭に入っていく
今年2回目だけど、確かに初回は全部珍しくて写真を撮りまくっていたが今年はあまり撮ってないなnishio.icon
雨だったからというのもある
歩く禅の境地を体得できる
この発想はなかった。歩行禅の一種なのかnishio.icon ただ懺悔の力のみ、よく積罪を滅す
奥駈
sge.icon大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)は、吉野川柳の渡しから熊野の音無川を結ぶ総延長約170kmの山岳修行道です。8世紀初めに役行者が開いた修験道の根本道場であり、ユネスコ世界文化遺産に登録されています。1,000〜1,900m級の険しい峰々を縦走する極めて過酷な道です。
奥駈修行
全行程: 8泊9日、11万
経験経歴を書いて申し込んで審査される
金剛杖と檜笠が必須らしい
激痛、過酷!
ホーマ(焼く)
外護摩
供物を焼く
内護摩
蔵王権現の智慧の火によって自己の煩悩を焼く
愛染明王
愛欲煩悩は断じ尽くすことが難しいので、浄化して菩提に転換させる
愛を否定しない
諸法神事妙行得菩薩(しょほうしんじみょうぎょうとくぼだい)
みんなで声を出し合う
死にざまの功徳
衰弱していく姿を見せること
死にざまを見せること
これが他人に対する貢献であるという考え方