掘り下げて循環参照
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今まで「抽象概念に対して、それをもっと具体的にするための質問をする」という話を何度かしてきた その時の脳内の図は上図上段
今日、その質問に対して、自分の具体的経験や具体例Eで説明するパターンAと、別の抽象概念で説明するパターンBがあることに気づいた パターンBは、繰り返し質問していくことでEに到達するパターンB1と、Xがまた出てきてしまう循環参照パターンB2があることに気づいた このパターンB1に関して
最初「これは概念Xをちゃんと理解してない」と思った それは本当か?と思った
ある抽象概念Xについて「そのXって、具体的には何ですか?」と聞いた場合に、具体例が出てくる人はXを理解していて、別の抽象概念Yが出てくる人は怪しく、Yについてさらに同じ質問をして…を繰り返した時に具体例につながることなくXが出てきて循環参照になる人はXを理解できてない
という仮説が一見正しいように思えたんだけども、本当に正しいだろうか?
理解という概念にはコンセンサスに至ってる客観的な定義はない。
『西尾はこういう状態を理解と呼ぶ』という主観的な定義は、上記の定義にすぐ見つかる矛盾はない
具体例
右の概念
「右は左の反対、左は右の反対」で右の概念を理解したと言えるか?
→僕は理解してないと感じる
辞書
右: 相対的な位置の一つ。東を向いた時、南の方、また、この辞典を開いて読む時、偶数ページのある側を言う。
東: 方位の一つ。太陽が出る方角・方面。南に向かって左の方。
紙の辞書を読んでる人が持ってる「この辞書を開いて読む」という経験に帰着させててうまい
「箸を持つ方」というよくある説明は「箸を持つ」という経験に帰着させてる
右手で箸を持つ経験をしてる人にとっては「自分の経験に帰着した」となる
左利きの人もいるから「辞書の読者が右手で箸を持つ経験をしてないかも」という予測ができるので避けたか
箸のない異文化の人にはもちろん伝わらない
「fooはbarの反対で、quuxを持つ側です」
東西南北を太陽の出る方角に帰着させるのは、対象のほとんどがこの地球上に住んでる現状では「多くの人がしてる経験」に帰着できてる
人類が他の星に植民したら使えなくなりそう
我々は教育課程で抽象的に考える訓練をしている
最初はおはじきを並べて「2個と3個、合わせて5個」とやる
その後で、実際におはじきを操作することなく足し算ができるように訓練する
具体的経験と切り離してる
「2」という数は抽象概念の一つ
抽象的概念を具体的経験に結びつけないで、概念のまま扱う訓練
そのせいなのか「具体的には?」と聞かれても抽象的なことを言ってしまうクセがついてるかも
ついやってしまう
自分で具体的に実験しようと思って「ゼロって何ですか?」「ものが存在しない時にその個数を表現するのに使う数です」「存在とは何ですか?」で即死したんだけど、よく考えたらこれは「具体的に何か?」と聞いてないので一般的な回答をしてしまっている。「ゼロって具体的には何ですか?」「例えばここにリンゴはないけど、これをリンゴの個数が0個だ、って表現する」なら具体例に繋がってるからOK
立川 智也 実験とは、具体的になんですか?
今回やったみたいな、実際に試してみることだよ
つい言葉で定義しそうになるバイアスを感じる
「今回のように『XならYである』という仮定がある時に、実際にXであるような行動を試してみてYがどうかを確認すること」って最初答えようとしてた
メタな話、このプロセス自体が「理解」という抽象概念を掘り下げるプロセス
仮説を検証するために実験をすることは、新しく「経験」をして、それに結びつける作業