公理系の違い
2017-11-01
数学や哲学の素養がある人(哲学の場合は特に真理論の素養があり、正しさの相対化ができている人)は、自分の公理系と異なる公理も別の体系として許容できる 公理
現実社会は基本的に複雑であるが、複雑なまま思考することが人間にはできないので近似が行われる、その近似方法
公理の食い違いの具体例
相手の感情への配慮
必要である
「Xをやると不快に思う人がいるかもしれない」
「不快に思われることはコストであり、予見できるなら回避すべきである」
不要である
「Xをやることに対して他人が不快に思うかどうかは不可知でコントロール不能なのだから気にするべきではない」
人間の感情に対して「不可知」というシンプルな近似を使っている 不可知なものを憶測して回避することにコストを掛けるのは合理的ではない
人間の価値を均等だとするかどうか
均等である派
均等ではない派
きれいごとで「均等である」と言う人がいても、実際の行動として「自分自身と、遠い国の恵まれない子供」の価値を均等として行動を伴わないならただの口だけである。均等であると主張するなら、自分の収入のうち、自分が生きていく上で最低限必要な金額以外をすべて発展途上国の恵まれない子供の生存権確保のために分配すべきである。
人間の知性を均等だと仮定するかどうか
均等である派
生得的な差はあるがその後の学習による効果に比べると誤差のレベルであり無視できる
今愚かな人であっても適切に動機づけて学ぶことによって他の人と同等に改善しうる
均等ではない派
今愚かな人が今後改善することも起こりうるが、誤差の範囲であり無視できる
愚かな人の底上げに労力を割くよりも、賢い人をさらに高めることに労力を使うべきである
均質である派:だいたいどの人も同じ
均質ではない派
「地域Xに住む人はYな傾向がある」
2025-03-29
ベースとなる公理の選択が異なるが、二人とも論理的思考能力を活用しているところは同じなので、エミュレートが容易である。 相手の公理系を獲得してしまえば、エミュレーションで相手と同じように振る舞うことができる なのでどちらの意見に立つ人としても振る舞うことができるようになり、どちらか片方の振る舞いしかできない状態よりも (よりよく理解できる(?) / 自由度が高まる(?))
どちら側の意見を採用するかは自分にとっての有用性で決めて良い
Aさんの公理系を獲得済みの場合、Aさんの思考をエミュレートできる
同じ方向に進みたいときは相手の公理系を採用して思考したらいい
Aさんの思考をエミュレートできるのでAさんがBさんにうまく考えを伝えられていないときに「Aさんが言いたいのは〜〜ということですか?」と助け舟を出すことができる
僕の一般的な解説スキルを他人の思考の解説に使うことができる
これはかなり重宝される
逆に進みたいとき
Aさんの公理系を「暗黙に〜〜と仮定してるように思いますけど、それって正しいんですか?」と揺るがしたらいい
だいたい「そんな仮定はしてない」と反論してくる
そうなんですね、と受け止めて話を発展させていけば、自分の立脚している公理系を否定して発展させてるのでどこかで綻びが出る
稀に「正しいです」といってくる人がいる
それは「どうしてなんですか?」と掘り下げるといい
普段Trueだと仮定している作業仮説の下を掘るのでしばしば循環論法になる
公理系獲得済みでない人に対して掘り下げを使うことで公理系の獲得ができる 相手が循環論法になった時点でそこがその人の公理系だということ 未知の公理系を獲得できることはレアだけど、獲得できると人生における実利がある
知っていることによって自分と異なる思考をする人の思考エミュレーションができるので、未来予知ができる たとえば「力は悪である」公理系の人(奴隷道徳)に力を与えると、自分が力を持っている状態が不整合を起こすので、力を分散しようとしたり(=みんなで多数決で決めよう!)、みんなでルールを定めて自分が力を持って判断するのではなくみんなで作ったルールに従ってる形を取ろうとすることが予想できる、なので問題が起きる前に未然に防ぐことができる