何によって憶えられたいか
私が一三歳のとき、宗教のすばらしい先生がいた。教室の中を歩きながら、「何によって憶えられたいかね」と聞いた。誰も答えられなかった。先生は笑いながらこういつた。「今答えられるとは思わない。でも、五〇歳になっても答えられなければ、人生を無駄にしたことになるよ」
今日でも私は、この 「何によって憶えられたいか」を自らに問い続けている。これは、自らの成長を促す問いである。なぜならば、自らを異なる人物、そうなりうる人物として見るよう仕向けられるからである 私が 一三歳のとき、宗教の先生が 「何によって憶えられたいかね」と聞いた。誰も答えられなか った。すると、「答えられると思って聞いたわけではない。でも五〇になっても答えられなければ、人生を無駄に過ごしたことになるよ」といった。
言い換えれば、この問いは人生の道しるべとなり、自分自身を理解し、成長していくための指針となるのです。