逆対応
nishio.icon逆対応とは?
claude.icon西田 幾多郎が晩年に到達した重要な概念の一つが「逆対応」です。 通常、AとBの関係を考えるとき、AがBに対応する、といった一方向の対応を想定します。しかし西田は、AとBが互いに反転し合い、相互に入れ替わるような、逆の対応関係をも考えました。
例えば主体と客体の関係でいえば、主体が客体を包み込むのではなく、逆に客体が主体を包み込む、といった逆転が起こる。一般に能動と受動、内と外などの二項対立的な事柄が、ぴたりと反転し重なり合う、そんな事態を西田は「逆対応」と呼んだのです。 つまり、AとBが表裏一体となって、AでありながらBでもあり、BでありながらAでもある、といった両極の同時成立を意味します。日常的な論理では理解しがたい、禅問答のような逆説をはらんだ概念といえるでしょう。 要するに「逆対応」とは、相反する事柄が絶対的な意味で出会い、相即不離の関係に立つこと。西田哲学の究極的な思索として、「絶対矛盾的自己同一」とならぶ重要概念として位置づけられています。 nishio.icon絶対矛盾的自己同一とは?
claude.icon「絶対矛盾的自己同一」も、西田幾多郎晩年の重要概念の一つです。
物事には、互いに矛盾し対立し合う側面があります。例えば、生と死、善と悪、有と無など。通常はこうした矛盾は同一のものには存在せず、別のものとして分離されています。
しかし西田は、絶対の次元においては、こうした矛盾対立するものが、そのまま矛盾のままで同一のものとなる、と考えました。つまり、矛盾が矛盾としてありながら、しかもそれが同一のものとして成り立つ、という逆説的な事態です。
例えば絶対無の場所では、有と無が完全に相即不離となり、有でありつつ無であり、無でありつつ有である、といったことが起こる。個と一般、主体と客体なども、絶対の次元では矛盾のまま一つに同一化されるのです。
これは日常の論理をはるかに超えた、東洋的・禅的な思想の極北といえるでしょう。弁証法的に矛盾の統一を説く西洋哲学とも一線を画します。 つまり「絶対矛盾的自己同一」とは、相反する物事が、相反したままで、絶対的に一つのものとなること。禅の公案のように理屈では説明できない究極の事態を指す概念です。「逆対応」とともに、西田哲学の真髄をなすものと言えるでしょう。 共通点としては、まず両者ともに、西洋形而上学の二項対立的な思考様式を批判し、乗り越えようとしている点が挙げられます。主体/客体、有/無、善/悪といった対立項を解体し、その背後にある非二元的な事態を見出そうとする姿勢は共通しているといえるでしょう。
ただし相違点も見逃せません。デリダの脱構築が徹底した言語論的な運動であるのに対し、西田哲学はあくまで形而上学的・絶対的な志向性をもっています。西田が究極的には禅の立場から思索を展開しているのに対し、デリダは一切の形而上学を解体し尽くそうとする点で、両者の立場は大きく異なります。 また西田が東洋的な「無」の思想を基盤としているのに対し、デリダはあくまで西洋哲学の伝統の内部で脱構築を遂行している違いもあります。 したがって西田哲学と脱構築思想は、二元論の解体という点で共通項をもちつつも、思想の基盤と志向性においては大きな隔たりがあるといえるでしょう。しかし両者の間の緊張関係を通して、新たな思想的可能性を切り拓く手がかりも見出せるのではないでしょうか。西田のような視点から脱構築を捉え直すことで、ポストモダンの行方を問い直す糸口も開けてくるように思われます。
claude.icon落合陽一氏の「脱構築ではなく自然」という考え方と、西田幾多郎の哲学には興味深い共通点があると思います。
一方、落合氏の「脱構築ではなく自然」という考えも、脱構築が人間の営為に限定されるのではなく、自然界そのものに本来的に内在する原理であることを主張しています。人間と自然の二元性、言語と世界の二元性を解体し、より根源的な一性を見出そうとする点で、西田哲学と通底するものがあります。 両者に共通するのは、人間中心主義的な見方を脱し、自然や世界そのものの真理に迫ろうとする姿勢だといえます。西田が禅や東洋思想の立場からそれを追究したのに対し、落合氏は現代テクノロジーの文脈でそれを語っている違いはありますが、思想の根底には一定の親和性があるように思われます。 ただし、西田哲学があくまで思弁的・形而上学的な探求であったのに対し、落合氏の視点はより具体的で実践的な色彩が強いことは指摘できるでしょう。しかし、そうした違いを超えて、「自然」という視座から新たな思想の地平を切り拓こうとする点では、両者の間に意義深い共鳴関係を見出すことができるのではないでしょうか。