理解は主観
難解な概念を掘り下げることなく「理解した」と早合点する人々がいる
特に、自分が以前から高く評価していた概念を新参者が否定した場合、「それは違う」と反論したくなるのは自然なこと
その「主観」をぶつけ合うだけでは有益ではない
「あなたはそう理解しているのですね、私の理解とは違いますね」という態度が適切
ここで「あなたは間違っている」と主張すると、その誤りを証明する責任が生じる
以前から知っているというだけでは、その理解が正しいという保証にはならない
では、どのようにすれば良いのでしょうか
答え: 「理解」は実験を通じて検証するべきだ
自分の理解に基づいて行動し、それが良い結果をもたらしたなら、理解が正しかった
これこそが時間と注意を投資すべき対象です
十分な知識を持たず、知識を得るための調査意欲もない人は時間を投資するのに魅力的な対象ではない
その人たちの「理解」が、あなたの主観で「おかしな理解」だと感じられるなら、それを議論によって立証するのではなく行動の成果によって立証すべきである
2023-07-30 ver.4 GPT4と共著nishio.icon
ver.3
ver.2を参考にしてver.1をリライトせよ
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理解の誤りは、難解な概念を掘り下げることなく、「理解した」と早合点する人々によく見られます。
特に、新参者が自分が以前から高く評価していた概念を否定した場合、「それは違う」と反論したくなるのは自然なことです。しかし、「理解」というものは主観的で、その「感」をぶつけ合うだけでは解決には至らないことを理解することが重要です。既に知っているというだけでは、その理解が正しいという保証にはならないのです。
「あなたがそう理解しているのね、私の理解とは違うわ」という程度が適切です。ここで「あなたは間違っている」と主張すると、その誤りを証明する責任が生じます。
では、どのようにすれば良いのでしょうか。その答えは、「理解」は実験を通じて検証するべきだということです。自分の理解に基づいて行動し、それが良い結果をもたらしたなら、その理解が正しかったと考えることができます。これこそが時間と注意を投資すべき対象です。
しかし、十分な文脈を持たず、また十分な調査意欲もないまま、「自分の視点から見て不合理な結論」に取り組む人々は、時間を投資するには魅力的な対象とは言えません。
ver.2
ver.1の内容でベクトル検索する
私たちはしばしば、自分の理解を勘違いします。本当はその概念を理解していないのに、しばしば自分は理解していると感じてしまいます。この勘違いに気づいて、理解を改善していくために、自分が理解しているかを検証することが大事です。
あなたが何かをわかったような気持ちになったとしても、本当にわかっているという保証にはなりません。わかったような気持ちは、あなたの脳内で仮のモデルが作られた時に起こります。そのモデルが正しいかどうかは、検証する必要があります。検証は、そのモデルを実際に使って、その結果を観察することで行われます。
主観的な「理解した」という気持ちはしばしば間違ってる
「理解は仮説」であって「仮説を検証するための実験」をしなければ自分が本当に理解しているのかどうかはわからない 理解したつもりのことの解説を書いてみるのはこの実験として有効
説明してみる実験をした結果、しばしば「あれ?これって理解があやふやだな?」と気づくことがあって、そうやってあやふやなところを見つけて潰していくと脳内に「情報が相互につながった密なネットワーク」ができていく。それができると必要に応じてつながりをたどって引っ張り出すことができて有用
理解を確認するためには、アウトプットして、自分の外のシステムが自分の理解通りの反応をするか観察するしかない。理解通りの反応をしなければ理解の誤りが確認できる。理解通りの反応をしても理解が正しい保証にはならない。たまたまかも知れない。どんなに努力をしても100%の理解は得られない。
それとはレイヤーの違う話で、個々人が持っている資源(お金や時間など)は有限だから、何にどれくらい資源を割くのかを自分で決めて配分しなきゃいけない。どう配分するのが最適かは目的と持っている資源の量によって変わる。
資源配分戦略を人に相談することがまったく無益だとは言わないが、持っている資源も達成したい目的も明確化しないままではなかなか有益な議論にはならないだろう。
いま「Xを理解したい」としよう。その「Xの理解」は最終目的なのか?いま悪魔が現れて「あなたにXの理解をさずけよう。ただしXを理解したらすぐに死ぬ」と言ったら契約するか?しない?ならば「Xの理解」は最終目的ではない。別の目的を達成するための手段にすぎない。
「学んだ方が良さそうなものがたくさんありすぎて理解が追いつかない」という苦しみは現実的でない理想を追い求める自分の心に起因する。「難しい本をスラスラ理解する自分」というイメージを追い求めて、実際の自分とのギャップに悩み苦しむのは、「永遠に生きる自分」とか「年を取らない自分」とのギャップに悩むのと同じ構図。
自分の考えを多くの人が理解しないと言うことを「よくあること」「単なる事実」と捉える
ここから「自分の主張が理解されない時に、理解しない相手に対して怒る人は、最先端を走ったことがない人である」が導けるのではないか
他人がなんからの意見を言ったときに「へー、あなたはそう言う意見なんですね。私はそれを理解しないし理解するためにリソースを割くかもありません」と言ったら多くの人が怒りそう
でもその多くの人が他人の意見に対してやってることでは?
ver.1
ある難しい概念について、ろくに調べもせずに「わかった!こういうことだ!」という人がいる
その「理解」が自分の理解と食い違っている時、特に自分がもっと前から肯定的に評価しているものを、最近知った人が否定的に評価している場合に「そうじゃない」と言いたくなる
しかし結局のところ「理解した感」は主観なので、主観の状態でぶつけても物事は良くならない
「先に知っている」は正しさの根拠にならない
「あなたはそういう理解なんですね〜、私の理解とは違いますね〜」までが適切、ここで「あなたは間違っている」と言うと、間違っていることの立証責任を背負うことになる ならばどうすれば良いかというと「理解」は実験によって検証するべき
自分の理解に基づいて行動して、良い結果に至ったならその理解が正しかったということ
文脈も足りず、きちんと調べる気もなく、「自分から見ておかしな結論」に飛びついている人は、魅力的な時間の投資対象ではない