リゾーム
https://gyazo.com/0c74581d18423b14c733f4067bbb3100
Mille Plateaux
(Author) ジル・ドゥルーズ = フェリックス・ガタリ
プラトー1 : リゾーム
可能性の肯定、何かが発生=創発することに関する哲学
それはまだ何も生まれていない状態(<多>がうごめいている)のなかで、「一つのアレンジメントagencement = 配置」を形成するときに、何かが発生=創発する
「測定可能なもろもろの線や速度は、一つのアレンジメントagencement を形成する。本とはそのようなアレンジメントであり、そのようなものとして、何ものにも帰属しえない。それは一個の多様体なのだ──とはいえ〈多〉が、もはや何にも帰属しないとき、つまり実詞の状態にまで高められるとき、何をもたらすか、まだわかっていないのだ。」
「アレンジメント」とは、「配置」とか「組み合わせ」とか、要するに<外部への開かれ>が問われている
その外部への開かれを閉じることもできるし、開くこともできる
アレンジメントが閉じられた本を「神様をでっちあげ」という
要するに、クローズド・サークル
哲学者のための哲学書
建築家のための建築
詩人のための詩
…etc.
アレンジメントとしての本とは、例えば哲学者のための哲学書になってはいけなくて、『千のプラトー』はサーファーも読むし、ミュージシャンも読むし、土木作業員も読むし、営業マンも読むし、登山家も読む。そしてそれぞれにサーファーと『千のプラトー』のアレンジメント、ミュージシャンと『千のプラトー』のアレンジメント、土木作業員と『千のプラトー』、営業マンと『千のプラトー』、登山家と『千のプラトー』とのアレンジメントが形成されて接続されていく
ドゥルーズ=ガタリは
アレンジメントの可能性を開くために(=逃走線を引くために)、まきびしのようにびっくりするほど多様な言葉を使っている
ex)本、地層、逃走線、(抽象)機械、非有機体(金属)、純粋な強度、シニフィエなきシニフィアン、平面、多様体
「ある本が語っていることと、それが書かれている仕方とのあいだには違いがない。」
まさに、『千のプラトー』のスタイルそのものが『千のプラトー』の言わんとすることを語っている
「何ものにも帰属しえない」
多様体・器官なき身体
みんなちがって、みんないい
たとえばどのようなアレンジメントがあるか?
①「直根」
https://gyazo.com/01e266670f3cb1fd11f37669276f479f
(Fractal Tree)
<世界>、有機性、意味作用(シニフィエ=本の内容)、主体性、美しき内面性、古典的な本、世界を模倣するもの
自然がなしえないことを本が行う(:人間の精神性の強調)
ロマン主義的とも言えるし、人間中心主義Humanismともいえる
自然/精神 (あるいは自然/人間)という二元論的な前提
②「ひげ根」
https://gyazo.com/77b700d12e814ca440fa8bd932a6e087
(Minkowski Island)
「中心」がないように見えるけれど、「かつてあったもの」/「来るべきもの」として中央がありつづけている
ある種の否定神学システム
例えばバロウズのカット・アップ(テキストのコラージュ)やダダイズムの空間モンタージュ
コラージュとしてバラバラな断片を繋げているのだけど、そこにはコラージュの「意図」や「精神性」があり、けっかとして「バロウズの作品」「ダダイストの作品」として求心力をもってしまう
「カオスモス(混沌=秩序宇宙)」を形成する
中心をバラバラにしたと思ったら、中心(<一なるもの>)ができていた…
カルトを批判するカルト
「実のところ、<多>よ万歳と言うだけでは足りないのだ、確かにこの叫びを発するのは難しいのだが」
みんなちがって、みんないい問題
「みんなちがって、みんないいよね」(<多>よ万歳)
→「じゃあ外国人ヘイトスピーチも一つとして認めてくれるよね、みんなちがってみんないいなら」(現状肯定)
③「リゾーム(根茎)」
https://gyazo.com/d420596309f56db99db08e73d41b5e19
(Puffer Train)
「<多>、それは作り出さねばならないのだ、相変わらず一個の高位の次元を付け加えることによってではなく、逆におよそ最も単純な仕方で、節制により、手持ちの次元の水準で、
つねに n マイナス 1で
(こうしてはじめて一は多の一部となるのだ、つねに引かれるものであることによって)」
リゾームの特徴
1° 連結の原理
リゾームのあらゆる点は他のあらゆる点と接合されることができる(ノード)
(リゾームと対立される)樹木的な見方では、それは一つの点で接合され、それが連結し、秩序が固定化される
たとえば生態系を、リゾーム的な見方をすれば、樹形図(=進化系統樹)が見えるわけではなく、多様な食物連鎖が見える。これはある種、見方の問題でもある。その見方において、中心(「一(イチ)」)を引く(「−(マイナス)」)こと(「n - 1」)が重要
「リゾームは記号論的鎖の輪や、権力の諸組織や、芸術、学問、社会的闘争にかかわる出来事などをたえず連結し続けてやまないであろう」
芸術運動という領野に絞れば、その影響を直接に受けてでてきたのが「リレーショナル・アート」(関係性の芸術)
リクリット・ティラヴァーニャ「パッタイ」
美術館でパッタイを作って客に振る舞う、という実践
アート・ワールド=ホワイトキューブの中に生活、文化、振る舞いを繋げて、アートという領域を曖昧にしていく
空間(=内部と外部とを分けるもの)からネットワーク(内部と外部とがない接続の領野=プラトー)へ
2° 非等質性の原理
すべて同じ(等質)であるということはありえない
もしあるとすれば、メジャー(多数派)による権力があるだけだ
「母語」という権力
教育によって、「国語」によって言語が標準化される
実際には方言や隠語、特殊言語しかない、そしてその交錯、接続、連絡がある
cf.)ヒップホップの言語、建築家の言語、哲学者の言語、ダンサーの言語、ビジネスマンの言語、サーファーの言語……
3° 多様体の原理
統一性がない (性質)
「多様体には主体もなければ客体もなく、たださまざまな規定や、大きさや、次元があるだけで、そうしたものはこの多様体が性質を変えないかぎり成長しえないのだ(したがって組合せの諸法則は多様体とともに成長する)」
「リゾームには、構造、樹木、根などにおいて見出されるような点ないし位置といったものはない。線があるだけなのだ」
「統一性(= unite = 単位)」というものがひとつの観念であること
権力装置によって要請されるもの
もちろん政治的な領域に限らない
たとえば音楽のアルバム
一個のコンセプトをもってアルバムが作られるとき、そこに「統一性」が、作家=権力装置によってもたらされる
リゾームはアルバムではなく無数のプレイリストであり、DJ LiveSetであり、レコメンデーション・システムである
レコメンデーション・システムは音楽の聴き方を変えるし、ジャンルを横断させる
それが過度なパーソナライズによって囲い込みになるときに権力装置による「メタクソ化(enshittification)」になる
4° 非意味的切断の原理
自由な切断と再形成
「どうして脱領土化の動きと再領土化の過程とが相対的なものであり、絶えず接続され、互いにからみあっているものでないわけがあろう?」
脱領土化と再領土化はセット
逃走と再形成はセット
逃げて、作る
作って、逃げる
何度でもやり直す
この自由さ、はデザインの領域における「類似」による接続 / 切断と同じ
https://youtu.be/IrS-QTLvxjA?si=uVi5f1MsJcmAMJw2
進化の系統樹においてさえ、「樹木と血統」モデルからの非意味的切断=脱領土化がある
なんらかのウイルスによって遺伝子が突如として別な遺伝子、細胞へと変化していく線(流れ)がある
Cタイプウイルス→狒狒のDNAと家猫のDNAが結びつく
(狒狒と猫の非平行的発達)
5° 地図作製法の原理
現実の何に注目し、何を取り入れ、何を削り、どこに区切りを入れるのか(地図作製)
対して「複写」は二元論(オリジナル/コピー)を前提とした、オリジナルと同じもののコピーをすることであり、頂点(オリジナル)を完全なモノとして保持する
→樹木モデル(ツリー・モデル)
重要なのは「方法」(地図を作製する過程、プロセスそのもの)
すでに作製された地図…たとえば国土地理院の地図を複製することではなく、手書きの地図を作製すること
あなたの地図は、あなたの関係性、欲望、行為、関心に基づいて加筆され、削ぎ落され、輪郭が浮かびあがってくる=リゾーム
6° 複写術の原理
劣化コピーではないものとして、現実を取り入れる「複写」術
「複写を地図につなぎ直すこと」
樹木モデルとリゾームは常に混ざり合っていて、純粋な形態はない。リゾームも別の面から見れば樹木モデル的な構造が見つかるだろうということ。だからこそ、そこにリゾーム的な傾向を見つけだして指し示していくこと
「地図ないしリゾームが本質的に多数の入り口を持つということが真実なら、必要な用心をした上でのことだが、複写の道や樹木-根の通路によってもそこに入ることができるということさえ考慮に入れるべきだろう」
いままでの議論で「複写」(樹木-根モデル)が批判され「地図」(リゾーム)が持ち上げられてきたが、それは批判される「複写」というものが「オリジナル」とされるものの「劣化コピー」を押し付けることが問題だった
フロイトやメラニー・クラインが精神分析において無意識をなんでもかんでも「男根(ファルス)」や「乳房(良いおっぱい/悪いおっぱい)」と結びつけること
現実の実際の無意識とは乖離した、劣化コピーとしての無意識を断定して押し付けていた
「幼いハンス」(フロイト)
馬車に対する恐怖症を持っていたハンス君に対して、馬=男根の象徴=父親への恐怖=オイディプス・コンプレックスと診断
「幼いリチャード」(メラニー・クライン)
学校に行けず、外出や他の子供と関わることを忌避したリチャード君に対して、「なにか悪いもの」に攻撃されていると感じている、そしてその「なにか悪いもの」とは根源的には「悪いおっぱい」(→父親が母親を専有するからおっぱいを僕にくれない)だとみなしてクライン流のオイディプス・コンプレックスと診断
「リゾームには始まりも終点もない、いつも中間、もののあいだ、存在のあいだ、間奏曲なのだ。(…)どこへ行くのか、どこから出発するのか、結局のところ何が言いたいのか、といった問いは無用である。」
... 「リゾーム的思考」(短い記憶/短い観念)、「非中心化システム」、「分裂分析(スキゾ・アナリーズ)」、「東洋とアメリカ」、「草」、「プラトー」、「地層-分析」、「プラグマティック(実践論/語用論)」、「ミクロ政治学」などが続き最後には標準的な英語文法から外れた詩 "Ol' Man River"が引かれていく
このスタイル自体がリゾームといわんばかりの速度で、話題がポンポンと変わっていく
nで、nマイナス1で書くこと、スローガンで書くこと――リゾームになり根にはなるな、決して種を植えるな!蒔くな、突き刺せ!一にも多にもなるな、多様体であれ!線を作れ、決して点を作るな!スピードは点を線に変容させる!速くあれ、たとえ場を動かぬときでも!幸運の線、ヒップの線、逃走線。あなたのうちに将軍を目覚めさせるな!正しい観念ではなく、ただ一つでも観念があればいい(ゴダール)。短い観念を持て、地図を作れ、そして写真も図画も作るな!ピンク・パンサーであれ、そしてあなたの愛もまた雀蜂と蘭、猫と狒狒のごとくであるように。