みんなちがって、みんないい
私と小鳥と鈴と
私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。
この詩はよくもわるくもすごくナイーヴなことばたちで出来ている(詩とはきっとそういうもの)ので、
素朴に現状肯定のために使われたり
あるいはそれを揶揄するように悪口として使われたりする
「『みんなちがって、みんないい』って言うけど、〇〇〇…」
でもわたしは、この言葉は本当に好きで
<現状肯定>でもなく<悪口>でもなく、「人間は変わっていける」ということをずっと肯定していく、しかも現状を否定することなしに、そういう肯定の肯定みたいな力があると思う
それはつまり、みんな「ちがう」ってことは、
いまのわたし、
5秒後のわたし、
5秒前のわたし、
カレーを食べたいと思っていたのにカツ丼を食べているわたし、
映画を見に行こうと思っていたら服屋にいって帽子を買っているわたし、
みんなちがっていて、みんなちがえるんだ、今日も明日も昨日もちがっていける
でも映画を見に行こうと思って服屋にいっている現状のわたしを肯定しているのではなく、ちがえるということそのものを肯定しているんだ
現状肯定とか悪口とかそんな出口のないことやってもしかたがないよ、って
鈴と小鳥と私とはみんなちがうけど、ちがうけどもいっしょにならんでいられるんだよ
「本はさまざまな具合に形作られる素材や、それぞれまったく異なる日付けや速度でできている」ってDeleuze=GuattariがMille Plateauxで言っていたけれど、みんなちがっていくから、いつもちがうときに思いついて、いつもちがうときにお話して、いつもちがうときに気合いが入る、それをいっしょうけんめいに集めると本って言われるのかもしれない
もちろんそれはいっしょうけんめいということが大事で、いっしょうけんめいに書いたり読んだりすることで、みんなちがえる
みんないっしょうけんめいにちがえるから、みんないいのだ