Jean-Paul Charles Aymard Sartre「眞理と實存」1989/1
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眞理は私にとって、絕對において眞なのであり、私は、それを絕對に眞なものとして他者に與へる。したがって、それは絕對なのである。
即自かつ對自 (an und für sich)$ \land
共-存在 (Mit-Sein)
眞理は私にとって、絕對において眞なのであり、私は、それを絕對に眞なものとして他者に與へる。したがって、それは絕對なのである。
眞理檢證
思念された対象を豫測し開示する行動として、自分の想定を現實に生きる exister 必要がある。
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flowchart LR
t1-.->t2-->t1
今の行ひが今の意圖ではなく後の意圖に依って檢證される事を以て、今行動する
自己理由
自己根據
我有化
$ \ne同一性
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flowchart
t1---t1
t2---t2
存在は認識可能である
無知
虛無
存在の夜
誤謬
誤謬を犯しえない現實 = 實在。明證
二つ
證明
私は、一本の樹を里程標と取り違へて完全に閒違ふかもしれないし、宵闇の中で、誰もゐないのに「誰かがそこに」ゐると考へるかもしれない。だが、少なくとも、樹が、少なくとも宵闇が、つまり卽自 (an sich)的な何かがその根源的な曝露が私自身の出現と同時的である何かが、ある。 豫測
非在
非在であるかぎり、無ではない。
私の作業において出現した形は、突然、私に抗して、破壞できぬものとして立ちふさがる。
もし、反對に存在が「樹としてみられる」ことを斷固として拒否する場合は、豫測は消滅する。
食事の閒中、塩入れを持續的に用ゐる
(船は一日中、晝夜絕へ閒なく何度となく、アルキメデスの原理が眞理であることを檢證してゐる)。
人 - 道具
眞理の暫定的な性格
私は存在の意識以外の何ものでもなく rien、私を存在から隔ててゐるのは無 Rien であり、私が自分の目的を詳細に描くにつれ、存在は詳らかになるのだから、この平行關係 (パラレリスム) は私を存在の共犯者に仕立てる、つまり、私は存在によって卷き込まれてゐるのだ。
それゆえ、肯定することは、創出されたものでありながら眞理檢證的な囘歸によって、あたかも自分が作ったかのやうに、世界を引き受けることであり、その立場を取ることであり、存在の立場をとる (物への加擔) ことであり、あたかも我々の創造物であるかのやうに責任を持つことである。
いやなもの
犠牲 = 自己否定 abnégation
(自分が作ったものとの事後的な關係を拒否すること)
犠-牲 = 自己-否定とは、存在に關して、それが私であること、私に屬してゐること、私のうちにあることなどを否定することである。
無知。噓
ひとが自分の目的をすでに選んでしまったのは、この世界においてである。このことは、存在を組織するある種の照明を前提としてをり、そのなかで存在は、あなたに抗して、その逆行率を展開し、破局 (catastrophe)的な眞理檢證をあなたに強いる。 檢證が體系的に可能であるのに (グラスは組織された活動全體の象徴である)、それを意圖的に中斷しても、眞理檢證自體が行爲の一つ一つの精密な結果として實施されることになるだけのはなしである。
偶然が眞理檢證の支配者となる
しかし、この發見が單なる偶然になるには、夫が本當に出發して、たまたま (たとへば、忘れ物をして) 歸宅するだけで充分である。かうして、知らないでゐようとすることは、結局のところ自分を偶然の手に委ねることである。
外部の介入を拒否する
啓示。預言
すでに構成された眞理、つまり、他の人たちにとってその存在充實が展開する眞理が問題となってゐるとき
まだ誰も暴き出してゐないものを暴き出さないことが問題となる場合
無知 (= 無視) は存在を崩壞させるがままにすることの決意である。
自己欺瞞
なぜなら、醫者は彼女を危惧から明白に解放することができるが、この危惧を眞理だと-檢證することもできるからだ。そのさい、可能性であった結核は明確なものとなり、その密度とともに、世界の中に出現し、レントゲンや檢査を通して顯はれ、それまでは別々だった現はれ (熱、等々) の意味となる。
貞淑ぶった女の前での猥談は憚られるものだが、彼女は猥談を聞くのを拒んでゐるのだ。それが彼女にも關係があるからこそ、彼女はそれを存在させることを拒む。
もし、シャトーブリアンが知によって會食者たちの目前で死肉に變はったならば、肉を食べる紳士 (ジェントルマン) は共犯者になってしまふことだらう。
それは、彼女が惡臭の自由な創造者としての行爲 (汚いもの、醜いものを創造すること) を行ふことを望まないからであり、そのために突然匂いは名前も記憶もない曖昧な不快事のうちに解消してしまふのである。
死
私にとっては私の死の眞理はないのである。
實際、死ぬことは、私の主體性のこの出來事なのだが、私はそれを認識することができず、それゆえそれは私にとっての眞理をもたない。しかし、そのいくつかの側面は他の人にとって認識可能であるがゆえに、私にとって認識不可能なこの認識可能なものが、私に許されてゐる無知を規定してゐるといふ錯覺をもつ。私の死は、私がそれについて認識しない權利をもった、認識可能な事實であるといふわけだ
しかしさうなると、私の死は、認識不可能な認識可能なものとして、私が行ふあらゆる眞理-檢證作業を中斷し、進行中の檢證を決定されないももに殘し、豫測について確認も否定もされないまま殘すことになる。
といふのも、私が死にいたるまで、私の妻の貞節に關する眞理-檢證をしないまま生きながらへることができれば、私は救われるからだ。なぜなら、この浮氣を〈實存しかつ暴き出す存在〉が消滅することによって、この問題からあらゆる人閒的な意味がとり除かれるからである。