高村友也「存在消滅 死の恐怖をめぐる哲學エッセイ」2022/6/10
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死の恐怖
「自分は無になって、永遠に戾ってこない」
「死んだら永遠に無になる」
日常は過ごさねばならぬが、死の恐怖より重要な事は無い
死の恐怖を知り乍ら正氣で生きられるのは何故か?
「死の恐怖を最重要に考へてゐる」と云ふ優越感←自我 →(發病)
→死を恐れ乍ら如何に日常を過ごし得るか
ひとことで言ふと、死の觀念が、日常を追ひ越してしまった。
それまでは、私が死の觀念に呑み込まれさうになるたびに、日常が私を正氣へと引き戾してくれてゐた。
まるで生活の全體が自分の腦内にあるやうな長い時閒を過ごした。生活の中から他人の痕跡が消えてゆくにつれて、つまり生活が孤獨になるにつれて、私の意識も孤獨になっていった。意識が「自分」といふ枠から出ることが無くなり、それに慣れていった。
ところがその日、その刹那、私は自分の頭の中から出られなくなってしなった。思考の流れが、日常生活の流れを、呑み込んでしまった。
そして、閉ざされた思考空閒の中で、「自分の死」といふ觀念が膨張していった。
人閒の生は、「現在」といふ時閒の內部から見た、あるいは「私」といふ意識の內部から見た、視點依存的な世界であり、物事を思考し、外部から眺め、俯瞰したときに現れてくる眞理とは別種の眞理なのだ。
我々は普段、生の內側にゐるから、なんとなく「死」のはうが得體が知れなくて、不可思議で、怖く思へるのだが、もしも假に生と死を平等に見ることができる立場があったとすれば、やはり平等に得體の知れないものに見えるだらう。
死について考へてゐるときでも生きようとしてゐるし、必死に生きてゐるときでも「こんなことをしてゐてもやがて死ぬのだ」といふ考へが消えることはない。何をしてゐるときでも、まるで自分が噓でもういてゐるかのやうな氣氛だった。
この「死の人格」を、私は隱さなければならないやうな氣がしてゐた。
むしろ今は、この二面性を心に留めておくことこそが、私が生きてゆくためのよすがである。
Vladimir Jankélévitch「死」1966
神祕
神祕は、私自身ないしは人類の智慧の不足によるものではなく、人類の智慧がこの先どれだけ進まうと、原理的に解決されえない不思議である。
解かれるために存在するんぢゃなくて、存在するために存在する謎