蓮實重彥「フランス語の餘白に」1981/4/1
https://gyazo.com/973349a09dee96d4ac8b18e6c27426f2
われわれが外國語を學ぶ唯一の目的は、日本語を母語とはしてゐない人びとと喧嘩することである。大學生たるもの、國際親善などといふ美辞麗句に、閒違っても騙されてはならぬ。
利用者諸氏は、これらの文章をただ盲滅法に書き寫し、ついには原典を見ずに全文がすらすら書き綴れるやうになってほしい。
どう努力してもできない人が、敎師にも學生にも確實に存在する。それはむしろ自然なことなのだ。それ故、あまり神經質になる必要はない。
發音と綴字の讀み方とを混同しないこと。綴字の讀み方は、努力すれば誰にでもおぼえられる。それを、自分にあった音で口にすればよい。それができないのは、おぼえる意志がないか、不注意であるかのどちらかである。從って、この種の困難は、個人的に孤獨に解消されうる種類のものだ。
書かれたものを覺える事に就いて敎師と生徒は平等
事態を視覺的に把握させるための圖式はほとんど使はれてゐない。イタリック、またはゴシックによる特徵的な細部の誇張も極力避けられてゐる。それを行ふのは、この肉體的な書物の活用者であるところの各人の手である。
豫習するといふ善意の持ち主のために、文法的說明をかなり詳しく書きそへた。但し、編者にとってはじめての試みでもあり、かつ編者の非力も加はって、そこに閒違ひがまぎれこんでゐることもおおいにありうる。その折りには、擔當敎官は涼しい顏でその誤りを指摘し、より適切な說明を加へて下さればそれでよい。
外國語の習得に必要とされるのは、自分では知らないはずのことがふとわかってしまふといふ特殊な能力である。この能力は、自分では知ってゐるはずのことがふとわからなくなってしまふといふいま一つの能力とともに、もっとも重要なことがらである。