風立ちぬ
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「生きねば。」
「風立ちぬ」は凄くよくて、何がよかったと言って、これぐらいやっていいという励ましになったことが全てで、僕は今、人間関係を断って、自分のある一時期、一年に二言三言しか喋らずブログの更新ばかりしていた大学時代を思い出そうともがいているところ、なんて事情はどうでもいいけれども、所詮は畳水練、人は今、今のやり様で努力するほかなく、そんな自分に「風立ちぬ」を見せたら、ああ自分のやりたいことはそんなにやっていいんだと心が洗われるようだった。 震災や親切や戦争や家族や友情や恋、果ては愛までもが、風が吹くように現われ、また凪ぐように身を潜めるのに比べて、その夢だけが、風が吹こうが吹くまいが、空を駆けてゆく。
かと言って、その様は熱に浮かされたように熱中する様として描かれるわけでもなく、その歴史的正当性と、死ぬ前から完成している自伝的必然性において説明を省かれる。我々はそういう人間なのですから、そう生きるのですという風に。
こんな傲慢な話は無いが、それが本当だとも思う。
だから、「生きねば。」の興味は己の中にしかない。大勢の人が死んだとしても、愛する人が死んだとしても「生きねば。」と言うよりは、夢を成し遂げてしまったとしても「生きねば。」なのだ。その句点は、人の忠告を払いのけるだろう。
こんな傲慢な話は無いが、それが本当であれとも思う。
きっと、分かれ目は、妻のために一つの手を捧げることの、この事の大きさをどう考えるかだろう。
フランツ・カフカは「知的な仕事は、人間を人間の共同生活から引き離す。手仕事は逆に、人間を人間の仲間へと導きます。」と若人に語った。 飛行機の設計は知的な仕事だろうか、手仕事だろうか。アニメーションは?カフカの頃にはアニメーションなど無かったし、それらがいかなるところへ身を置くのだろうかわからないけれど、「知的9の手仕事1」ぐらいに落ち着けるとして、その作業に没頭する中で片方の手を捧げることが、一番の愛でいいじゃないかという奇妙な気分になっていた。 そういうことをひとまず考えたあと、とりあえず至急、歌詞を完成させなくてはならないと、シネコンの待ち合いロビーのソファに座り、極彩色に囲まれて、2番を書いていた。
何のためになるかは知らない。こんなことをそろそろ10年近くもやっていることの意味を問うことも止めてしまって、ただやっている。
と書いてみるぐらいの墨は虚栄心の残り滓でも作れるようだけれど、そんなことだって、もうどうでもいいのだ。試行と時代を錯誤しているうちに、一切の時間は過ぎていく。
種に水をやったら育って花が咲くのが不思議になる今日この頃ではあるけれど、つまり、それが手仕事の正体なのだろうと思う。
だから、「風立ちぬ」では、おおよそ知的な仕事である設計が終われば、飛行機はすぐに出来上がってしまう。もう次のカットではテスト飛行に向かうべく牛に牽かれている。手仕事は省略されるしかない。
宮崎アニメで、これまで、特に少女たちは不自然なほどによく働いていた。誰もが手仕事に精を出し、人間の仲間へと導かれていった。人間でないことも多かったが。
今回はきっとまるでちがう。
描かれるのは、知的な仕事への陶酔によって、誰より共同生活から引きはがされた人間である。だから彼は震災に動じることもないし、療養地でのみ日常的な振る舞いをすることができる。カストルプが言うように。
だから、彼のロマンスは、そうしたサナトリウム的別荘でしか起こり得ない。そこで彼は一時的に夢を取り上げられた状態でいるからだ。彼は病によって共同生活から切り離された女性を愛する。
二人に関係無い人だけが、ときどき手仕事を覗かせる。世話になれど、関係を作る気など二人にはない。手仕事、つまり人間の営みから離れた場所で彼らは生きるほかない。
宮崎駿は、そのように生きる人間を「いい青年」と呼んではばからない。
僕はうらやましく思った。「いい青年」になりたいと思った。