『花束みたいな恋をした』
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。ラストのファミレスのシーンで出てくる男女の女性を演じる、清原果耶。 離れた場所から文句をつけている二人にとって、恋愛というのは、“同じであること”のようだ。すべてを分かり合える、互いを同一視してしまうような存在と巡り合うことは、確かに恋愛の一つの理想の形である。もちろん、自分に足りないものを相手に求める恋愛も正しく、色んな恋愛の形があるのは当然なのだが、この映画の二人においては“同じであること”が、最高の恋として描かれていく。ジャックパーセル、絡まってしまうイヤホン、栞代わりの映画の半券、チケットを取ったのに行けなかったライブ、そして、その極め付けとしての、ほぼうちの本棚じゃん。”同じであること“は互いに愛するポップカルチャーを確認し合うことで高まっていく。押井守、天竺鼠、cero、穂村弘、長嶋有、『粋な夜電波』、『宝石の国』、『ゴールデンカムイ』etc・・・一方で二人の恋が崩れていく様子もまた、ポップルチャーとの距離を通して描かれていく。再演を共に待ち侘びていた『わたしの星』を一人で鑑賞し、楽しみにしていた『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』を一人でプレイし、薦めた『茄子の輝き』は読まれることがなく、『ストレンジャー・シングス』や『マスター・オブ・ゼロ』を画面で共有することなく、一人パソコンで鑑賞するようになる。そんな風にして少しずつ“同じ“でなくなっていく二人。一緒に食べるはずだった「さわやか」のハンバーグを一人食べ、先輩の死を”同じように“悲しめなくなることで、二人の別れは決定的なものとなる。 ここには同一視する恋愛の脆さ、社会に適合していくことによるカルチャーとの別離の様子がリアルに刻まれている。「劇中に登場するカルチャーは自分の趣味ではない」という旨の発言が坂元裕二のインタビューに登場することもあり、劇中におけるポップカルチャーの羅列はリアリティを召喚するための単なる装置で、どこか冷ややかな視点すらあるのかな(たしかに二人の自意識のありようは身に覚えがありすぎる故に顔から火が出るようだ)、とも思ってしまうのだけど、それでもやっぱり、ここには愛がある。そう信じたい。GReeeeNやSEKAI NO OWARIやONE OK ROCKといった大きな音で流れるヒットソングに馴染めず、社会の片隅でひそやかに、小さな物語を愛し、二人きりのカラオケボックスではしゃぐ若者の懸命さは、まさしく坂元裕二の作品の登場人物のそれである。そんなどこか生き辛さを抱えた彼らを生かし続け、自らの血肉であるかのように交換し合うポップカルチャー。それら全般への坂元裕二の少しねじ曲がった愛情と感謝が、この映画には横たわっているんじゃないかなぁ。
同じポップカルチャーが好きじゃないと恋愛がスタートしないんじゃないと思っている節が自分にある。同じポップカルチャーが好きじゃなくても恋愛は始まることあるのに。
麦が職場に泊まって寝袋に入りながらパズドラするところイヤだったなー。あと、人生の勝算という本を立ち読みするところもイヤだった。
同じであることを確かめ合う。