2015/7
乗代雄介「十七八より」を読んだ。三周読んだ。会社の昼休憩にドトールでひたすら文章読んでた人の小説が、村上春樹や村上龍、柄谷行人も獲った群像の新人賞を獲るなんて、感動しませんか、ぼくはしました、どこが震源か分からないけど嬉しいなとも思った。おれも頑張ろう。おれも、おれの尊敬する人たちがきっと超えてきただろう丘を、モンスターボックスを飛び越える池谷直樹のように、ちゃんとして超えようと思う。そう思う。このロイター板の踏切の使い方を、この股関節の広がりを、超えた後の背中が角に当たらないようするこの背筋の反りをこそ、見てもらうようにする。 秘密にした分だけ、大事な気持ちになったり、価値があるように感じたりするのは、取るに足らない錯覚でしょうか。気持ちはすぐにはっきり示した方がいいとか言うけれど、でも、隠した分だけ驚きがあったら、それは価値があるということではないのですか。もちろん、その程度の価値ではあるけれど、やらなかった後悔の方が大きく残る、なんて言わないでほしいのです。
p28
他の人に読まれない日記に価値があるんじゃないかというのを、ソーシャルな場に書いてしまう浅はかさがある。
自分の人生を、自分が生きているという実感が薄い。山雲海月、花鳥風月に心揺さぶられるという体験が少ない。
この「適温」に苦しむという弱味がどれほど社交を困難にしてきたかわからない。
p37
「ある事実というのは、勘付かせぬまま突然出すからおもしろい。だから、いつもそれを用意しておかなくてはなりません。それで心の平静を保つこともあるでしょう。私は弱く、花なるべからずとわかっていても、秘密をいくつも抱えて恬然としておくことができないのです。秘密をもちながら、それを明かしていかなければ不満な未熟者です。だから話すのです」
p38
ちょっと冷静になると、その普段生活する上で関わる女の人たちは、十七八歳を経て、今に至るのかと気付いた。
最近は情報があっという間に伝わるようになり、単純な世界になっている。本は斜陽産業だと言われているが、単純な世界になればなるほど、複雑さを求める文学はなくなることはないだろう。『十七八より』はもっとも複雑に書かれていた。乗代雄介さんの言葉に魅入られるように読みふけった。文学にいま必要なものがここにある