「かたち」の植民地化・脱植民地化
自分自身を特定の職能や技術に特化させること、それによって身体や思考のかたちが可塑的に変化することがいいのか悪いのか、みたいなことを最近考えている気がする
例
ナウシカ「働き者の手」
吹奏楽やガラス職人特有の、首が空気で膨らむ病気
発声に特化して筋肉を鍛えること
剣道をすると左手だけ長くなる
ギターを弾くと豆ができて指が固くなること
シットとシッポ第8回で、「小説家は小説だけ書いてていいのか」みたいな話をしていた
不定形さ、未決定性への憧れ
考える
自分自身もそういう適応みたいな動きは数えきれないほどしてきてるのだけど、同時に自分がはっきりとした形になっていくことにある種の怖さ・グロさを感じてしまう部分がある
同時にそういう「職人化」みたいな状態への憧れみたいなものもある
一種の諦めを感じるのと同時に、それを美学としても捉えている?
適応する対象や、そのコンテキストがどんなものであるかによるのだけれど。
身体の植民地化みたいな様相を帯びてしまうとグロい気がする。
たとえば世襲的な職人であったり、主体的に選べない状況で適応によって単機能化が起こった場合、それは身体のかたちが家父長制や労働によって植民地化されているんじゃないか、と思ってしまう
身体の植民地化、「かたち」の植民地化
かといって、消極的な選択の果ての緩みきった身体も、それはそれで模範的消費者としての「かたち」であり、資本主義に植民地化された身体なのだと思うけど
というか、現代の傾向である背が高い・脚が長いとかって、ルッキズム的な資本主義社会における自然淘汰の結果とも考えられるわけで、その時点で植民地化から逃れられていないんだよな
身体はあらかじめ、歴史によって植民地化されている…
ということは、あらかじめ植民地化された身体の「かたち」を取り戻すための闘争としての「職人化」もあり得るわけだ
とはいえ、これもやりすぎると三島由紀夫的なマッチョイズムに帰結しかねない
筋トレブームはどうなんだ
筋トレ中、瞬間瞬間では脱植民地化(脱領土化)の契機が生まれつつ、多くの場合は筋トレの目的(モテ、痩せ)によって再帰的にプロジェクト化(再領土化)されている気がする
=自己実現としての筋トレ
でも筋肉を肥大させる楽しさが暴走しちゃってボディビルダーになっちゃった、みたいな例もあるし、そこには一種のラディカルな脱領土化の力を感じる。手段が自走し目的が脱臼する。
=自己喪失・生成としての筋トレ
岸部露伴は動かないのランニングマシンの回
身体だけでなく、思考や行動の癖とかもそうか。
中川さんとか見るとそれめっちゃ感じるな
音楽界隈の人がやりがちな、「具体的な出来事に言及せず、間接的にナイーブな仕方で世界全体を儚む」みたいなアティチュードもある種のそれだ
というかいまの社会全体の自己破壊的な自己責任思考や「好きなものがわからない」論、etc自体が「新自由主義に植民地化された思考様式」ではある。
ただ「かたちを取り返す」ということを考える上では、そもそも植民地化される前の「かたちの零度」が存在し得るのか、ということを考える必要がある
でないと存在論的なシオニズムみたいなことになりかねない
ジェンダー/セクシュアリティの議論における亀裂の根源はこれな気がする。「かたち」の可塑性をどこまで想定するかが、立場によって違う。無限に可塑的だと考えればラディカルなトランスジェンダリズムや関係のアナキズムみたいな立場になるだろうし、一定のレベルに自明の固定性があるという立場に立てば、自認という概念を疑うことになる
僕はなるべく前者の方に連帯したいけれど、人間に無限の可塑性があるということを素朴に前提している議論には頷けない部分もある
かたちの零度
あるのかなあ?
世代を超えて考えると人類という種を超えて遡っていくこともできてしまうな
そこまでいくと「かたち」は「形質」になってくる
よく考えると超世代的な出来事になった途端「遺伝」というフレームでしか物事を見られなくなってしまうのも結構なバイアスなのかもしれない。
クトゥルー新世はそこからの脱却という意味もあるのだろう。遺伝的同一性というイデオロギー。
記述的・分析的に「ある・ない」を決めることは重要ではなく、「零度」という概念を設定することでパフォーマティヴに何を生み出せるか、という話な気がする。
「人としての零度のかたち」「零度の人間」という矛盾含みの概念
うーん、これ場合によっては人種主義とか優生思想みたいなものと繋がってしまいうるものなんじゃないか…?
話それるけど、日本において天皇とか皇族って「日本人としての零度のかたち」なのかもしれないな
零度の日本人としての天皇。
その「零度」が恣意的に設定されていることを考えると、ラディカルな零度性を奪還する、という動きは有効性を持ちそうな気もする。
というか、「これがあなたたちの『零度のかたち』なんですよ」という風に、可視的に提示されているもの(天皇、アーティスト像、労働者像、女性像、etc...)に対して、「それは真の零度じゃねえ!!」とブチギレることが大事なのかも。
自分たちなりの「零度のかたち」を提示するのではなく、零度のかたちの真の零度性=不在性そのものを突き抜けさせること
存在している、見えている時点で嘘なのだ、という
村田沙耶香はラディカルな「職人化」のグロテスクな面と脱植民地化の面を同時に描いていて面白い
コンビニ人間とかまさに「職人化」「単機能化」だし、世界99の「ピョコルン」もまた然り
「ユートピアを書いてるつもりがディストピアだと言われてしまう」みたいなことをインタビューで言ってた
これは女性の社会的役割、女性としての「かたち」を捨て去り別な「かたち」へとラディカルに変形することでもある
そこにある種の爽快さと恐ろしさを同時に感じる
世界99の空子は「無限に可塑的な人間」でもある
かたちの零度性、ある意味「無限の可塑性」のことでもあるのかも。
空子は無限に可塑的に見えて、最終的に自分自身のコントロールできない性欲なんかにぶつかってしまうわけで、「無限」という形で無限の可塑性を考えるのは無理な気がしました。Kai.icon
変に無限って言うことでむしろ「世界99」的に有限化してしまう感。
確かに。ただ空子の直面する有限性は内在的なものというよりも、それ自体「世界」から可塑的に影響を受けることで生まれているものでもある点には注意が必要だと思う。nozakimugai.icon
有限性のある世界に可塑的に適応することで有限化している、みたいな。
ですね〜、普通に世界に依存してる。Kai.icon
そういう意味では空子は「無限に可塑的」というよりも「別な仕方で可塑的であり得たもの」なのかも。その可塑性が、女性の社会的役割、「典型例」、トラウマ、社会の動向によってあらかじめ失われている、みたいな。
まだ上手く言葉にできないけど、常に既に奪われているものとしての「(無限の?)可塑性」みたいなものを見出そうとしているのかもしれない、僕は
「無限に可塑的な人間」を想定することはおおどういう意味を持つか?
これから考える:
器官なき身体?
踊る身体はどうなってる?
Kai.icon
個人的には、どうしても変わってしまう「かたち」をどう「使用するか」を考えたい。
人間は有限に可塑的であるってことがポジティブに感じられないと嘘な感じがしてしまう。
音楽家の認識と親和性のある料理に使用するとか、そういう実践を考えてる。