旅行記:2018年2月長崎1
わりと感傷的。
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まとまったお金(100万円)が手に入る目処がたったので、母を長崎旅行に連れて行った。ハウステンボスと長崎市街地に行ければ満足だったが、軍事・歴史オタクの弟が「佐世保で見てほしい建物がある」と言うので、佐世保・ハウステンボス・長崎を訪れた。 旅行代理店のツアー利用と、自分で飛行機や宿を確保するのに、さほど差額がなかったので、一度も旅行代理店に行かなかった。国内旅行保険はクレカ付帯の保険で十分……と思ったが、旅行代理店の方が安全だったかなと思う。国内旅行なのでその辺は適当。
# 1日目:2月21日(水) 羽田→佐世保
ソラシドエアの小さい機体。その日の気流のせいもあり少し揺れた。
この時点で手帳を家に忘れてきたことに気づく。
旅にはミシェル・ウエルベック『地図と領土』を持参した。作中、「地図は領土より興味深い」というフレーズが現れる。
「地図は領土より興味深い」
(ミシェル・ウエルベック『地図と領土』, 野崎歓訳, ちくま文庫, 2015, P. 81)
この一文は、芸術家である主人公がミシュランガイドの地図を写真に撮り、個展に出したときの展覧会のタイトルだ。記号(地図)と実物(領土)を比較すると、実物よりも記号のほうが興味深いのではないか? という問いかけである。「地図と領土」というたとえは、実物の作品よりも作品を取り巻くテーマ(地図)が価値判断として優先されている現代アートの実情を表している。
旅行プラン(地図)と実際の旅(領土)はどちらが楽しいだろうか?
高所からの眺めというものは、かつては神聖な神の目線だったり、ある種の特権を有していただろう。ここ十数年の間に、高所からの眺めはGoogle Mapsの航空写真やゲーム画面で私的に・気軽に操れるものに代わった。この眺めはゲームだと思った。このリアリティのなさが、逆説的によく親しんだ感覚としてリアルに感じられてくる。
窓の外には雲の白と空の青色しか見えない。そこは世界にオブジェクトが用意されていない余白だった。言わば世界の外側を、飛行機は時速600kmで走る。走るというべきか、飛ぶというべきか、ふさわしい言葉はまだ見つからない。
季節限定かもしれないが、機内で提供されたあご出汁と柚子のスープがおいしかった。
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長崎空港(大村空港)からバスで佐世保へ(1400円/人)。乗り合いタクシーの方が安いが、予約がとれなかった。
長崎は鯨料理を食べる。母はベジタリアン(宗教や思想によるものではなく、単に脂っこいものが嫌いという偏食)のため鯨は食べなかった。
途中、クジラを模したバス停を見た。
【写真・バス停】
写真は撮れなかったが、カササギを数羽見た。
カササギはユーラシア大陸に住んでいるカラスの仲間だ。日本へは「シベリアから北海道へ自力で日本海を渡ってきたもの」と、「中国・朝鮮半島から九州(おもに佐賀)に輸入したもの」という2つのルーツで伝来した。
ヨーロッパでは(カラスにまつわるイメージにもれず)魔女の手先や泥棒などずる賢いイメージを持たれていたが、中国では「喜鵲」と書き、中国・朝鮮半島では縁起の良い鳥とされてきた。朝鮮半島では「カチ」と呼ばれていて、これが日本語では「勝ち」に通じて縁起がいいとされ、日本語で「カチガラス」の異名をもつ。九州にカササギが定着した理由に「豊臣秀吉が朝鮮出兵時に『勝ち』の縁起担ぎに持ち込んだ」という説もあるが、文献に証拠は残っていない。
どんな見た目かというと、よく見かけるハシブトガラスよりもかなり小さい、ハトぐらいの大きさののカラスなのだが、真っ黒の身体に腹だけが真っ白で、コントラストがとても鮮やかできれい。
一瞬のことだったが、車窓から見られてよかった。
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午後3時、佐世保のホテルにチェックインし、海辺のハンバーガーショップで遅い昼食を取る。いろいろTV取材も来た店らしい。佐世保港の目の前のショッピングモールのツタヤで、ロルバーンのノートとデジカメのSDカードを買う(ノートを家に忘れ、撮影中にSDカードの容量が尽きるという不覚による)。
【写真・あまくさ】
日本一長いアーケードの四ヶ町・三ヶ町商店街を抜け、国際通りに出て佐世保川を渡る。この先は旧日本軍が使用し、第二次大戦後はアメリカに専有されたエリアで、海上自衛隊佐世保史料館、海上自衛隊佐世保地方総監部、米海軍佐世保基地などがある。
弟に撮影を頼まれた建物は、その近辺にある佐世保市民文化ホールだ。この建物は、旧帝国海軍が第一次大戦の記念に建設した「旧海軍佐世保鎮守府凱旋記念館」を改修して再利用している。 【外観・写真】
第一次世界大戦時に、日本は連合国軍の一員として参戦し、佐世保鎮守府から第二特務艦隊が当時イギリス領だったマルタ島へ派遣された。1923年に第一次世界大戦戦勝の記念として、現在の価値で約11億円かけて凱旋記念館が作られた。 構造は、基礎と柱は鉄筋コンクリートとレンガ、内装は漆喰、三角屋根の部分は木造である。
当時は鉄コン建築が日本で確立されたころで、前年の1992年同県内に高さ135-137mの電波塔「針尾無線塔」が建造されている。こちらは太平洋戦争開戦の暗号「ニイタカヤマノボレ」を中継した電波塔として知られている。(こっちも見たかった……)
凱旋記念館は、平日だったこともあり、常住の観光ガイドのスタッフさんが滅茶苦茶暇そうにしていたため、つきっきりで色々教えてくれた。
第一次世界大戦以降、旧日本軍の式典に使用されたこの建物は、第二次大戦中は海軍合同葬の式場に当てられた。米軍は凱旋記念館や基地の接収を計画していたため、1945年6月の佐世保大空襲では市街地を中心に焼夷弾が投下され、民間人を中心に1200人以上が死亡した。 戦後、米軍に接収された後はダンスホールや映画館として使用され、外壁にネオンサインを取り付け、内装は水色と黄色に塗り分けられた。1977年に変換されたのちは市民ホールとして整備され、2014-2015年に復元・改修工事が行われた。現在は国の有形文化財に登録されている。
通常は1階ホール部分と2階廊下部分しか見学できないが、スタッフさんのご厚意により2階の上の屋根裏部屋(映画館時代には映写室として使われた)と、屋根裏の修復の様子を見学させてもらった。
【写真・天井裏】
耐震構造の天井を新たに設置したため、もとの天井よりも低くなっている。
レンガはイギリス積み。色の濃い木材は建造当時からのもので、明るい色の木材は改修で新たに加えられたもの。屋根裏の一部には、米軍接収時代の水色の塗装も残っていた。
【写真・厠跡】
裏手にあるこの三角屋根の跡は、建設当時外付けだった厠の痕跡だそうだ。
外装の赤色の違いは、建設当時の外装と、2014-2015年の復元の差による。
この旧海軍佐世保鎮守府と、横須賀・呉・舞鶴の旧海軍鎮守府を合わせて「日本近代化の躍動を体感できるまち (PDF)」というストーリーのもと、「日本遺産」に登録されている。 「日本遺産」登録のためには「ストーリー」が必要らしい。そんなことをわざわざ書かなくても、文化財になるからにはすべて何らかの歴史・経緯=ストーリーを持っているのでは……?
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夕食は佐世保港のそばで鯛茶漬けを食べた。長崎の味付けは基本的に、ごま味噌・あご出汁・ゆず胡椒。酒も飲みたかったが、酸欠に近い疲労感(意識は冴えているが、脳がからっぽになったような、エナジードリンクで空元気をひねりだしているような体調)だったので、アルコールを飲まずに切り上げ、ジンジャーエールとルマンドアイスを買った。アルコールは摂らなかったが、たぶんカロリーは摂りすぎた。
【写真・夕食】
夜の佐世保港にクルーズ客船Costa Fortuna号が停泊していた。佐世保港の利用予定を調べてみると、今日佐世保に着いたらしい。翌日の朝には出発していた。
東京・横浜の沿岸部は、工業利用と滞在者の安全が優先され、港に一般人が立ち入れなかったり、海と陸がしっかりと柵で区切られている。佐世保港、それから長崎の出島周辺は、実際に定期船や漁船の停泊があるので、海と陸とが仕切られていない。
海辺を散歩する柴犬がいた。柴犬にしては珍しく、初対面の人にも人懐こい性格で、道行く人に近づいてそれぞれに挨拶をしていた。私たちにも近づいてきた。犬は笑顔がなんとなくわかる。暖かい日に海辺を散歩する犬はさぞ幸せだろう。
# 2日目:2月22日(木) 佐世保→ハウステンボス→長崎
母はリウマチ持ちで投薬と注射の治療をしている。家では薬のだるさや身体の痛みを訴えているが、旅行中はずっと調子がよかった。リウマチの原因が在宅のストレスのせいだろう。とりあえず母が幸福そうで何よりだった。
母は油っこいものが嫌いで、肉類はほとんど食べない。脂身の少ないひき肉料理はなんとか食べられるが、それでもジューシーなハンバーグを率先して食べることは少ない。この旅行中、母がけっこうな回数の肉料理・油ものを食べたことに驚いた。旅行中、歩く機会が多かったのに一度もリウマチの症状は出なかった。たぶん、肉を食べたおかげと、甘い長崎の味付けで低血糖から回復し、体調も良くなったのではないかと思う。
佐世保駅始発、シーサイドライナーでハウステンボス駅へ、昼頃に到着する。
ハウステンボスでは「散策チケット」という入場券だけのチケットを買った。夕方の夜景を見たかったのでかなり長く滞在したが、正直暇になったので、到着時刻を3時過ぎに遅らせるか、乗り物などを利用できるようになるパスポートつきのチケットの方が良いと思う(値段は2000円上がるが……)。
ハウステンボスには父と来たことがあった。小学6年生ぐらいだった気がする。その時は行きも帰りも東京-長崎間を寝台特急「さくら」に乗った。留守番していた母へ、おみやげに、誕生日の刺繍がされたテディベアのキーホルダーをプレゼントしたら、とてもかわいいと喜んでくれた。
母はテディベアをはじめ「かわいい」ものが好きなのだが、「かわいい」の許容値がかなり狭く、お眼鏡に叶うテディベアは少ない。(最近はタリーズコーヒーのベアフル® ミルクティーに惚れていた) ハウステンボスのテディベアショップと、ミッフィーのショップに母は興奮していた。いろいろ目移りしていたが、結局、フェアリーベアという小さなぬいぐるみを買った。チューリップの帽子を被っている、大きさ10cmにもみたない白いクマで、小さいせいで足の分け目をうまく作れていないので、右足と左足が魚の尾びれのようにくっついてしまっている。
母が気に入った点は、その表情の媚びていないはかなさだという。ミッキーマウスのような表情豊かなキャラクターよりも、ミッフィーをはじめとした、素朴で、表情で多くを語らない造形が好きらしい。
さっそく母はテディベアの写真を撮って、LINEでふるい友人に「いまハウステンボスを旅行中」と送った。すぐに「かわいい!」と返事が届いた。年賀状・メール・LINEと時代によって方法を変えられながら、ふたりの交友は30年以上続いている。
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ハウステンボスの住所「針尾島」は佐世保湾と大村湾の間にある土地で、名前の通り九州本島から早岐瀬戸(瀬戸=狭い海峡)を挟んで200mほど離れた島だ。「川を渡った対岸がじつは独立した島になっている」と言えば伝わるだろうか。
九州本島と針尾島の東部を隔てる早岐瀬戸を川に見立てて、南側の「大村湾の河口」にハウステンボスはある。ハウステンボス滞在中、ずっと少し磯臭いような水の臭いがただよい、海風が冷たかった。
針尾島西部の佐世保湾・針尾瀬戸側は佐世保鎮守府が利用し、針尾送信所をはじめとした軍事施設が設置された。それ以外に何もない。山間に民家がぽつぽつと建っている風景に、東京ディズニーランドと東京ディズニーシーを足したほどの広さのテーマパークが突然建っている。
テーマパークはもともとあった土着の場所のうえに違う土地やイメージを貼り付けている。テーマパークによって、遊びに来た人(夢を見に来た人)が土着の風景を見ないようにする(現実を見ないようにする)配慮の段階に差がある。完全屋内型のテーマパークなら外の風景=現実は絶対に見えない。また東京ディズニーリゾート(TDR)は大きな屋外型のテーマパークだが、園内から外部の風景が見えないように設計され、園自体も住宅地から遠い場所に建っている。
ハウステンボスは「ひとつの街として造る」というコンセプトで設計されている【注】ため、上記の屋内型テーマパークやTDRとは真逆に、土着の風景とテーマパーク内を区切っていない。テーマパーク内に配送の業者のトラックも通るし、ハウステンボスの屋外駐車場のすぐそばに一般の民家が建っている。
現実世界との壁を設けないテーマパーク設計が、来訪者に好印象を与えることに成功しているかどうかは正直判断できない。私は「入場料のわりに安っぽい」と思ってしまった。
いくら夜景をLEDライトでデコレートしても、その向こうの住宅、河川、山や森は、明かりひとつない闇だった。
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ハウステンボス内にはディック・ブルーナの書いた白うさぎのミッフィー(英語)=ナインチェ(原語のオランダ語)のショップがあった。一日の決まった時刻になると、きぐるみのナインチェがやってくる。そこそこの人だかりが出来ていたが、一人ずつ写真撮影の順番が終わると、人だかりはすぐに消えてしまい、撮影が終わってもなんとなくその場で待っていた私達はもう一度写真を撮った。ナインチェにハグする母を撮影し、私も2ショットを撮られた。ナインチェはちょっと黒ずんで汚れていたが、握った手はふわふわしていた。
【写真 写真撮影が終わった後のナインチェ、係の人に何か耳打ち】
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長崎行きの電車を待つ間、中国語を話す母娘が、「この電車は○○駅に行くか?」と英語で尋ねた。英語は分かるが、土地勘がないので答えられない。地元民らしい人が代わりに答えてくれた。長崎までは1時間半ほど。夜21:30過ぎに長崎に着き、かつての出島のそばにある港のダイニングバーで遅い夕食をとった。
佐世保もそうだったが、地方の港は海との距離が近い。東京のように手すりやフェンスで海と陸を区切らず、陸地の終わりがそのまま海への入り口として開かれている。そういう、すなおな、海へのシームレスな間口の広さが良いと思う。 * * *