ヨーロッパに行く建前と本音
ポイント:このように行頭中黒でインデントされているテキストは脚注の内容 or 思考のためのメモ or 蛇足なので読み飛ばしてOK
初稿なので駄文です
私は美術大学の絵画学科油画専攻を卒業した。
「油画専攻」という名前だったが、実際のところは「油画をはじめとした西洋美術の系譜で理解される美術作品を学び制作する」のが本質だった。私の大学の油画専攻は油画を描かなくても卒業できた。私は、絵はレオナルド・ダ・ヴィンチのように生まれ持って絵が特別上手い人に任せようと思い、私は在学中に油画を10枚も描かなかったと記憶している。私は油画専攻にいながら小説を書き、本をはじめ視覚による思想の提言(世間では「現代アート」と呼ばれるようなもの)を作っていた。
芸術作品は基本的にすべて物体(3D)である。物体自体はとても小さく、物体の取扱説明書や価値を記した文章が長大な作品もある。絵画も平面(2D)ではなく、紙やカンバスの厚みを持った3Dである。
(でも芸術畑では絵画のことを「平面」と呼ぶこともありややこしい)
絵を描いて展覧会に飾った経験のない人はイメージするのが難しいかもしれないが、描いた絵をそのまま壁に掛けても絵の見栄えは極めて悪い。
展覧会で、紙に描いた絵を壁に掛けるとする。絵の裏で接着しているテープが表面に透けてしまうと、絵の出来がとても悪く見える。またテープで留めるのではなく額縁を使う場合、どのような材質の額縁を使うのか(木製・金属・色は何色か)、絵とぴったり同じサイズの額縁か/絵に対して余白のある額縁か、額縁を作るのか買うのか(その費用は)、そもそも額縁で飾ることに適している絵なのか(わざとチープな表現をしている場合、額縁は不向きである)など、作品(絵)それ自体の外側に多くの選択肢がある。それは絵画が2Dではなく、厚みや重さを持った物体であるゆえである。
こうした経験から、私は、作品は「作品それ自体(内容)」だけで存在することはできず、必ず物体を伴うと学んだ。
絵それ自体は存在せず、絵は必ず紙などの物体の上に描かれる。=絵は「描かれるもの」が無ければ存在できない。
「描かれるもの」のことを専門用語で「支持体(support)」と呼ぶ。
同様に文章も、文章の内容「だけ」で成り立つことはできない。文章はその文字組や紙質、掲載媒体(ポスターか書籍かweb上か)など、文章を掲載するメディアなくしては存在できない。
「文章が限りなくプレーンに見える文字組や掲載媒体」もある(論文掲載誌とか)
むしろ「文章をただ読む限りでは特別に意識されない」ようなデザインが、文章にとっては良いデザインである。
違和感を感じる文字組が悪いデザインなので、良いデザインとは違和感を感じさせない=意識されないものである。
市販の新刊の文庫本に対して、読みにくいor読みやすいと特別に意識することはめったにないはず
そういうわけで私は「黒い紙に黒い文字で印刷された読めない本」など、普段の読書では意識を向けられることのないテキストの支持体(文字組や物体性)を意識させる作品を作る。
現在の「アート」のスタンダードは、否が応でも西洋史・西洋的価値観が下敷きになっている。語源を遡ると、アートはラテン語のarsに由来している。そのarsの意味は「技」「技術」である。 日本語のカタカナで「アート」と書くと、「なんか分かんなくて凄いっぽいもの」であり「平民には理解できない金持ちの道楽」のイメージが未だ拭えないし、「アート」を発信する作家やギャラリストがそのへんの誤解を解こうとしても、日本の「図画工作」と「美術」の教育が「西洋美術史とそれに必ずまつわる西洋史全般・西洋的価値観」を教えきれていない(カリキュラムがそういうふうになっていない)ので、どうがんばったって追いつかない。
(現在の世界の標準で、)「アート」はただ創意を思うままに発露したものではない。一見すると自由奔放に見える表現にも、その表現方法に至る理由=西洋の歴史・思想の文脈がある。この文脈を抜きにアートを考えることはできない。 西洋美術/西洋思想が何もかも理詰めであることへの批判としての美術/思想もある。
芸術というのがただのエモーションの発露でいいじゃないか、という考え方も正当だ。
岡本太郎は最終的には、芸術の専門教育の有無にかかわらず、市民皆が芸術を実践することを望んでいた(『今日の芸術』)
(日本の市井で「文脈なんか関係ない自由なアーティスト」という認識だろう)岡本太郎の経歴は、フランス留学など、「西洋思想の文脈」のど真ん中を学んでいることは記しておきたい。岡本太郎の作品・思想は「西洋の王道を学んだ上で」生まれた。
いかなる文脈からも影響されていない「自由な発想」はありえない。多数の前例を知らない限り自由にはなれない。
「西洋美術」または「美術」「アート」について語るとき、西洋中心主義になることに注意しなければならない。
まあでも、上記のような「(西洋の思想が)文脈重視であることへの批判」は、そもそも「西洋思想は文脈によって強固に紐付けられ今日まで続いている」という大前提がないと発生しない。この大前提は「歴史的に今日までそうなってきた」のですぐに覆えるものではない。
このように「芸術には文脈なんていらないのでは?」という話は、「芸術には文脈ありき」という前提ゆえに生まれる提言のため、応用編ということで今は脇に置いておく。
西洋の思想に先立つものは論理である。
卵が先か鶏が先かのたとえ話のように、人間の言葉と考え方はどちらが先立つのかはっきり分からないが、人間は言葉を使って思考している。西洋の歴史で、きわめて厳密な文法を持つラテン語が学問の言語に使われたことは、論理によって作られている西洋思想の大きな礎/大前提になっている。
だから「論理学」という学問が生まれ得る
こういう脱線を重ねる遊歩的なテキストは極めて非西洋なんだよね
こういうテキストが生まれるのは、日本語が主語も述語も省略可能のガバガバ文体だから
逆に日本の作家が、西洋の作家たちから「論理的思考にがんじがらめになっていなくて羨ましい」というふうに称賛されることもある。
禅や俳句が、西洋で評価される理由
美術も西洋の論理とは切り離せない。西洋美術の歴史はキリスト教・王政・資本主義といった権威の歴史と密接にリンクしている。 西洋の思想はヘーゲル的な弁証法が芯になっている。「今日を反省して明日に活かせば、明日はもっと良くなるはず」という一本道の上を進歩していくのが弁証法だ。西洋美術史もまた思想の引き継ぎによって止揚を繰り返し、今日の現代アートまで続いている。
いや、本当になんだっけ。
さておき、自分が大学時代の4年間西洋美術(的思考)を学び、卒業後もものの考え方や価値観に強い影響が及ぼされているのは間違いない。ならば若く時間も体力もあるうちに一度は本場にいかねばと思った。 というふうに大体の相手には説明した。
本音:推し
2017年1月から、流行りのスマートフォンRPG『Fate/Grand Order』を始めた。『Fate』は歴史上で偉業をなした人物や神話・物語の登場人物を「英霊(えいれい)」と呼び、英霊を召喚・使役する人間(マスター)と使い魔(サーヴァント)として召喚された英霊の交流を描いた長寿シリーズのファンタジー作品である。
長寿シリーズだけあってなかなか設定が複雑で、『FGO』をプレイしただけでは分かりづらい設定・描写もある。同年2月からFateシリーズの1作目であるノベルゲームの全年齢移植版である『Fate/stay night [Realta Nua]』をプレイし、TVアニメ『Fate/stay night [Unlimited Blade Works]』を視聴した。誕生日に友人たちからのサプライズプレゼントでPlayStation Vitaを戴き、『Fate/sn』の続編である『Fate/hollow ataraxia』をプレイした。
つまり、ごくふつうに熱中していた。
ゲームにおいて、あるプレイアブルキャラクターを好きになる理由は様々だと思う。見た目(外見の特徴や担当イラストレーターの絵柄)が好き、担当声優のファンだから、性格やストーリーでの振る舞いによって好きになるという理由が多いだろう。
プレイヤーがキャラクターを操作するゲームならではの理由として、キャラクターの性能が気に入って、ゲーム内で何度もお世話になるうちにキャラクターを好きになる、という過程もある。私がそうだった。
RPG『Fate/GO』は戦闘中の回復・蘇生のコマンドがとても少ない。味方を回復するスキルを持っているキャラクターは多くないし、最近のレベル・難易度・敵から受けるダメージ量を比較すると、スキルで回復を行っても、回復量がかなり心もとない。このゲームには「やくそう」や「ポーション」のような味方を回復させる消費アイテムは存在しない。よってこのゲームでは「殺られる前に殺る」速攻か「回復をしなくて済むように被ダメージ量を減らす」作戦が求められる。
たとえばレアリティ☆3(無料召喚で問題なく排出される)「クー・フーリン(ランサー)」は、スキルで死亡時に1回蘇生、攻撃を3回回避、こちらの不利になる状態異常を自己回復する能力を持ち、生存に特化している。彼を隊列の殿に置くとこちらの前衛が全員吹き飛ばされるような強敵相手にもひたすら攻撃を回避して自己回復をし続けることで泥仕合に持ち込める。何度もボス戦でお世話になったし、今でも編成に困ったときは殿に採用している。
Fateでは登場人物が別の設定で再登場することがある。たとえばある伝承上の王の「良き君主としての側面」と「暴君としての側面」がそれぞれ異なる性能の別キャラクターとして登場する。別側面のキャラクターはゲーム内で別ユニットとして扱われるので、同一人物を同時に編成してバトルに挑むこともできる。
別側面は「闇落ちしたifの姿」「幼少期」などの真面目な設定だけでなく、「夏に水着を着て浮かれてみた姿」や「サンタクロースになってみた姿」など多岐にわたる。アーサー王伝説をもとにしたキャラクター「アルトリア・ペンドラゴン」はバージョン違いが計11人実装されている。(2019年6月現在)
アーサー王(女):伝承でアーサー王とされる男装のヒロイン
アルトリア・ペンドラゴン
アルトリア・ペンドラゴン(水着)
アルトリア・ペンドラゴン[オルタ]:アルトリアの別側面
アルトリア・ペンドラゴン[オルタ](サンタ)
アルトリア・ペンドラゴン[オルタ](水着)
アルトリア・ペンドラゴン[リリィ]:アルトリアの若かりし頃
アルトリア・ペンドラゴン(ランサー):アルトリアが武装を変えて成長した姿
アルトリア・ペンドラゴン[オルタ](ランサー)
謎のヒロインX:正体は増えすぎたアルトリアを始末しに来たアルトリア
謎のヒロインX[オルタ]:正体は増えすぎたアルトリアを始末しに来たアルトリアを始末しに来たアルトリア
謎のヒロインXX:謎のヒロインXの未来の姿(水着)
別作品にアーサー王(男)もおり、彼もカウントするとアーサー王は12人いる
あまりにもアーサー王が多いため敵としてアーサー王が出る機会も多い。チュートリアル、1部4章、1部6章でそれぞれ別性能の「アルトリア・ペンドラゴン」がボスキャラクターとして待ち構えている。(同一人物が宿敵として何度も立ち塞がっているのではなく、あくまで別側面として、それぞれ異なる理由・異なる目的で現れている)
敵のアーサー王に対して与ダメージが増える必殺技もある。
「クー・フーリン(ランサー)」は『Fate/sn』が初出のキャラクターだが、クー・フーリンの別側面として『Fate/sn』の前に構想された未完の作品『Fate/prototype』でのキャラクターデザインである「クー・フーリン(プロトタイプ)」、武装を槍から魔術に変えた「クー・フーリン(キャスター)」、戦場で熾烈な暴力を振るうifの存在「クー・フーリン(オルタ)」が実装されている。
クー・フーリン(ランサー):『Fate/sn』に登場した槍兵(ランサー)。基本の姿
クー・フーリン(キャスター):ランサーが転職した魔術師(キャスター)の姿
クー・フーリン(オルタ):ランサーが色々あって闇落ちさせられた姿
クー・フーリン(プロトタイプ):『Fate/prototype』で登場する予定だった姿。ランサーよりは若い頃だが、直接の過去の姿ではない。上記3人は完全に「同一人物の別側面」だが、プロトは別人のため別の声優が担当している。(でもこのプロトが「偽物」というわけではなく、プロトも「クー・フーリン本人」である)
このくだりも蛇足である。基本的にインデントされて行頭に中黒がついている文章は読まなくて良い 「クー・フーリン」はシリーズ1作目の『Fate/sn』で、主人公に対する最初の敵として登場した。といっても邪悪な性格ではないので無益な殺生は好まないが、主人の命令であれば非情な命令もこなす仕事人基質である。『sn』では敵という立場に留まらず、ストーリーの展開によって主人公と共闘してくれる。Fateシリーズでは他に『Fate/extra』シリーズや『FGO』に登場する。
今更説明すると『Fate/sn』はバトルロワイヤルものであり、魔術師たちが英霊を使役してほかの陣営を倒す話である。英霊たちは強力な戦力だが、有名な英霊たちは後世にその弱点も伝えられている。(ギリシャ神話の英雄アキレウスといえばアキレス腱が弱点)敵陣営に自分の英霊の弱点を察知されないよう、戦闘中は英霊の本名を呼ばずに「ランサー」「キャスター」といった職業で呼びかけている。
このバトルロワイヤルを「聖杯戦争」という。聖杯戦争での職業を「クラス」という
聖杯戦争では7つのクラスが呼び出され、クラスの重複はない。「この聖杯戦争でのセイバー」はひとりしかいないのでクラス呼びをしても問題ない
という設定なのに1作目の『sn』の時から「2人目のアーチャークラスの登場」「2人目のアサシンクラスの登場」「存在しないはずのアベンジャークラスの登場」という反則が描かれている
ところで弱点のたとえ話にアキレウスを出したけど、Fateでのアキレウス本人は強すぎてアキレス腱を狙うすきも無いと思う
Fateの登場人物「クー・フーリン」の原典はアイルランド叙事詩に登場する英雄Cú Chulainnである。日本語訳はクー・フーリン、クーフリン、クーフラン、キュクレインなどのバリエーションがあるが、ここではFateのキャラクターと区別するためにCú Chulainnまたはクーフリンとする。
アイルランドが4つの国に別れて戦争をしていた神話の時代、アルスター国の女性と太陽の神ルーの間にセタンタという子供が生まれた。少年セタンタは太陽神を父にもつため腕っぷしがとても強く、クランという人物が飼っていた自慢の番犬を素手で殺してしまう。セタンタは悲しむクランに対し「自分が新しい番犬になる」と申し出て、クランの番犬「クー(番犬)・フリン(クラン)」という名前を得る。
クーフリンが成長しアルスターの騎士になったのち、隣国コノート(コナハト)がアルスターに攻めてくる。クーフリンは孤軍奮闘し、コノートの女王メイヴによるだまし討ちに遭い、若くして戦場で立往生する。しかし彼の活躍によってアルスターは侵略から守られた。
さまざまなバージョンがあるが、クーフリンの物語はだいたいこのように伝わっている。
Fateでもこのあらすじが採用されている。
神がかった力を持つ若者が自己犠牲によって国を守るという筋書きについては、いかにも英雄譚であると思う。はじめてあらすじを読んだとき、私は「判官贔屓」の語源となった源義経伝承を連想した。そういう物語の構造に慣れている私は、遠くアイルランドの伝承に見られる、知った物語との類型に親しみを覚えた。
世界中さまざまな地域にある
構造主義 世界を画一な価値で見ようとするグローバリズムの走りかもしれない
構造主義について:レヴィ・ストロース『悲しき熱帯』を積読 アイルランドは文化的背景の近い隣国イギリスと同じく、妖精や魔法といった「ケルト」の伝承が色濃く残っている。
キリスト教は原則として唯一神の創造主(クリエイター)・神の子イエス・彼らが起こした奇跡である聖なる霊の三位一体以外の神秘的存在を否定している。 ギリシャ神話・ローマ神話などキリスト教にとっての異教の神が芸術の題材になったのはルネサンス以降。
14〜16C ルネサンス:キリスト教以前のギリシャ・ローマに学ぼうとする古典文芸復興運動
アイルランドは5世紀ごろ聖パトリックによりキリスト教(カトリック)が伝えられた。それ以来(本当に、現代に至るまで)アイルランドはカトリックの熱心な保守国である。 地下へ下る妖精
ナショナリズムへの利用
例えるならスサノオノミコトか桃太郎
Fateのクー・フーリンと原典のCú Chulainn どちらがすきなのかは区別できない
Fateのクー・フーリンの性格がなければ原典も好きにならなかった
耐久実験
裏事情:ロケハン?