ブルース効果
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ブルース効果(ブルースこうか、Bruce effect)は、哺乳類のメスにおいて観察される、メスを別の新しいオスに曝露させると妊娠が中断される現象である。 ブルース効果のうち、着床前の阻害(preimplantation failure)については1959年にブルース(Bruce)によって、着床後の阻害(postimplantation failure)については1990年にストレイ(Storey)とスノウ(Snow)などによって発見された。研究室レベルでは、少なくとも12種類の動物(ハツカネズミ、シロアシネズミ、ハタネズミなど)で、ある種の妊娠中断現象および妊娠阻止現象が報告されている(reviewed in Mahady and Wolff 2002)。 これらの実験の基本設計は、受精させたメスに種親ではない別のオスと直接に曝露させるか、または別のオスの尿に曝露させるか、もしくは別のオスが寝床を汚染するなどして、着床の阻害や流産、胎児の再吸収を生じさせる。実験の設計や実験動物の種にもよるが、着床の中断は妊娠17日目まではいつでも生じる可能性がある(e.g., Stehn and Richmond 1975, Stehn and Jannett 1981, Storey 1994)。
異なるオスとの接触時間、曝露時間、性的経験、異なるオスの挙動などの実験変数は、妊娠阻害の度合いへ影響する可能性がある (e.g., Stehn and Richmond 1975, Kenney et al. 1977, Storey and Snow 1990)。一般的な影響としては、種親と異なったオスとの一定レベルの曝露は、齧歯類のメスの正常な妊娠を阻害する。この反応はおそらく新しいオスへの適応のために生じており、メスの妊娠が中断される結果として1~4日で再び発情期となり、オスとの交尾の機会を提供している。 この反応のメスへの利益は、新しいオスは遺伝子的に優れているように見える点と、あるいは老いたオスよりもより適切なオスを得られる点で明確である。このことから、メスが以前のオスの代わりに新しいオスとつがいになることは論理的説明が可能である。メスにとって、つがいを作り、仔を生む機会は非常に限られているため、相手のオスには子孫に最も優れた遺伝子を残せるであろうという保証が必要となるのである。これは特に、子孫に膨大な時間とエネルギーを費やす哺乳類にとっては真理である。 なお、ブルース効果は実験室外では証明されておらず、 野生のハタネズミ(grey voles)では起こらないことが報告されている (de la Maza et al. 1999)。これらのことから、ブルース効果は実験室でのみ発生するアーティファクトである可能性がある。 ポイント
半世紀以上も謎であったブルース効果の原因物質の1つとしてESP1を特定した。 交尾相手と異なるESP1分泌量を示す別系統の雄マウスに接触すると、雌マウスは流産する。
ESP1は受精卵着床に必要なホルモンであるプロラクチンの分泌量上昇を抑えることで、交尾後の雌マウスに流産を引き起こす。 1959年、実験用雌マウスにおいて、交尾後、交尾相手とは異なる系統の雄マウスと接触することで流産が引き起こされることが報告され、この現象は発見者の名前に因み「ブルース効果」と名付けられました。2005年、尿中のMHCペプチド分子注5)の系統差を原因とする報告がScience誌に発表され話題となりましたが、矛盾点もあり、半世紀以上を経た現在まで原因物質は特定されていませんでした。今回、東京大学 大学院農学生命科学研究科の東原 和成 教授らの研究グループは、麻布大学 獣医学部の菊水 健史 教授らの研究グループと共同で、ブルース効果の原因物質の1つを明らかにしました。 ブルース効果の検証実験は次のように行います。
まず雌マウスと雄マウスを一晩同居させ、交尾を確認した後、雌マウスを1日単独飼育します。
次に、交尾相手の雄マウスとは別系統の雄マウスを、交尾後の雌マウスに2日間接触させます。 そしてその1週間後、子宮内における受精卵の着床を確認することで、妊娠か流産かをチェックします。
この方法を用いることで、複数の実験用マウス系統について流産の起きる組み合わせを探しました。
その結果、同じ系統同士の組み合わせでは流産は起きませんでしたが、Balb/CまたはDBA系統とそれ以外の系統の組み合わせでは流産が確認されました。一方、Balb/CとDBAの組み合わせ、またBalb/CとDBA以外の系統間の組み合わせでは流産は起きませんでした。 この結果を受けて、本研究グループは雄フェロモンの1つであるESP1という分子に着目しました。 なぜならばESP1はBalb/C及びDBA系統において分泌が見られますが、その他の系統では分泌しないからです(Haga et al. Nature 2010)。
そこでブルース効果はESP1を分泌する系統と分泌しない系統の組み合わせで生じるという仮説を立て、ESP1がブルース効果の原因物質である可能性を検証しました。
まず雌マウスと同系統の雄マウスの組み合わせでは通常流産は起きませんが、ESP1を交尾前の雌マウスに暴露すると、同系統の雄マウスの場合でも流産が起きることがわかりました。
また、交尾後、通常流産が起きない同系統の別の雄と接触する前にESP1暴露しても流産が起きることがわかりました。この場合の流産はESP1の受容体を欠損した雌マウスでは確認できないことから、ESP1に依存して起きる現象であることが示唆されました。
ただしESP1のみでは流産は起こらず、雄マウスとの接触も必要であるため、個体ごとに異なる尿中の因子とESP1の協調的な働きが重要と考えられますが、その因子はまだ不明です。
また、受精卵着床時に分泌量が増加するホルモンであるプロラクチンについて、その分泌時期にESP1を暴露した場合、雌マウスでの分泌量増加は確認できなくなりました。 これらの結果を総合すると、交尾後に雌マウスがESP1の分泌量の異なる別系統雄マウスと接触した場合、プロラクチンが正常に分泌されず、受精卵は着床に失敗し、流産が引き起こされると考えられます。
今回、ブルース効果の原因物質の1つがESP1であることがわかりましたが、それではブルース効果の生物学的意義は何でしょうか。
雄にとっては交尾相手の確保を確実にするため、雌では優勢雄の仔を残せることや、コロニー(集団)を乗っ取った新たな雄の仔を産むことによって将来の仔殺しを回避する、などのメリットが挙げられています。 ただしブルース効果は実験用マウスで発見された事象であり、野生のマウスについては現在も確認されていません。また他の動物についてはキヌゲネズミ科のネズミや霊長類のゲラダヒヒでブルース効果が報告されていますが、その生物学的意義に関しては不明です。 今回の発見は、ブルース効果の生物学的意義に迫る第一歩になると考えられます。また、ヒトのブルース効果は見られないと考えられますが、今回の着床とホルモンに関連する新たな知見が、着床率を高めることで妊娠成立を補助するための有用な基礎的知見につながることも期待されます。
今回の成果は、化学感覚シグナルである「フェロモン」による生理状態や生殖などの個体機能制御について、フェロモン分子とその受容体から内分泌系に至る多階層での理解につながるものです。今後、脳神経系での情報伝達や処理など、ヒトをはじめとする哺乳類での複雑な化学感覚シグナル受容の理解につながる有用な基礎研究基盤となる可能性があります。