『〈子ども〉のための哲学』
https://gyazo.com/2ea62533cd61eb4e18ef95717813598a
手にとった動機
永井均について調べてて目にしたので借りた
中学生ぐらいなら読める気がする
自分で哲学をするための本
「永井均」の哲学原理を平易な言葉で読めるという観点でも良い本な感じがする
歴史的な哲学者の名前もあまり出てこず、前提とする知識もあまりないので、「哲学マジでなんも知らん」って人でも読めると思う
めちゃくちゃ良い本だな
自分で哲学している人にとっては、かなり良い
その行動そのものを肯定される
本書での「大人」は、常識に慣れてしまって、無知の知を認識せず、疑問を持たずに(問いを立てずに)生きているような人(つまり一般的な大人)を指している
対して「子ども」は無知の知があり、純粋に世界に対して疑問を持つような人のこと(つまり一般的な子ども)を指している
子どもは、自分で哲学をしている
子どもの哲学
存在について問う
実在論者
青年の哲学
生き方について
いかに生きるべきか
観念論者
大人の哲学
世の中、社会の仕組みについて
存在は前提されており、それら複数の価値を比較する
観念論者
老人の哲学
死、無について
実在論者
この区別についてはp.205にも書かれているが、mrsekut.iconはちゃんと識別できていない
第一の問い なぜぼくは存在するのか
「ぼく」と「僕以外の人」の在り方がこんなにも根本的に違っているのか
自分以外の他人が全員ロボットかも知れない、という疑惑はニセの問題
逆に見れば、地球上に存在する人間たちの中の、「こいつ」がなぜ「僕」なのか
スマブラのキャラ選択画面みたいなイメージmrsekut.icon
地球上の人間というキャラがある中から、一つ選んだ「こいつ」がなぜ「僕」なのか
僕がこいつである必要はないし、こいつが僕である必要もない
「ぼく」が「ぼく」であることの必然性を考察する
脱人格的自我の個別化
脱人格化された自我は、つまり、特定の人間ではなくなるということ
複数の自我のみが並べて置かれている状況を見た時、
この区別は「自分自身かそれ以外か」でしか判断できない
例えば、4つの自我が、ABCDと並べられてて
Aがぼくなら、AとBCDの区別がつくが、BとCとD同士の区別はつかない
人格の同一性に関して、記憶説を批判し、身体説を擁護した
用語
「哲学」
世の中の一般的な哲学
他人の哲学、のような
<哲学>
「哲学」にふれる以前の自分自身の中にあった子どもの哲学
<哲学>と出会わない「哲学」には何の意味もない
ぼくは今度はライオンに生まれたい、と言うときの「ぼく」
Aさん特有の自我を離れて別のものを人格化したときの「ぼく」
人格的自己意識
上げ底と副産物
この章、めっっちゃくちゃ良いmrsekut.icon
自分の考えを批判して更新していく作業は、一人でやるのは難しい
有効な批判をしてくれる人だけが、哲学上の友人になる
友人とは論敵である
自分の思想を批判してくれる人のことである
思想は公表されなければ意味がないが、哲学は異なる
哲学は賛同者が増えても本質的な意味はない
「有効な批判」とはなにか
それは、有効な批判が出てきた時点で初めてわかる
有効な批判の成立そのものが批判の有効さの基準を初めて作り出す
哲学は何の役にも立たない
それが哲学の存在理由であり、使命である
何の価値も前提にして考えないので、そもそも「役に立つ」という基準にならない
死は生の対立概念ではない
死には2つの意味がある
自分は死んで、後に、誰かが、自分と同じ責務を果たす
よって、周囲の人は自分の死に気が付かない
自分は生きているが、記憶が失せ、顔貌が変わる
一方で、生には2つの意味がない
「生まれてこないこと」が生の対立概念ではないか
なぜ悪いことをしてはいけないか
中学時代の善悪の判断
人が幸福になることが、善いこと
人が、というのは、功利主義的に全体としてみた時に、皆が、幸福になること
道徳的な善悪は、道徳外的な好悪に依存している
その事象が起こることで、好いか悪いか、という感情に依存している
その事象そのものの道徳性を議論していない
高貴な者は自分を優良とみなして「よい」と言い、下劣なものを劣悪と見て「悪い」と言う
劣悪な者は自分を善良とみなして「よい」と言い、高貴な者を見て「悪い」と言う
「善いこと」は「しなければならない」のか?
「悪いこと」は「してはならない」のか?
そこを直結してもいいものか?
人々は道徳的観点を過大視しすぎではないか
本書では更に議論を進めている
↑この原理は、経験的事実を述べたものなのか、経験に先立つ人間理解の枠組みを述べたものなのか、を検証する
経験的事実を述べたもの
人間を調べてみると、調べてみた全てのケースでこれが当てはまった、という意味
調べていないケースでは反例が存在しうる
経験に先立つ人間理解の枠組みを述べたもの
この原理に唯一つも例外はない。任意の人間がこの原理に従っている
任意の人間が、どのような状況、どのような精神状態においても必ず成り立つ、と見る
道徳性と対立する利己性、と、道徳性を包み込んだ利己性
個人的には後者だと思っているmrsekut.icon
「他者に道徳的であって欲しい」と願うのは、自分の利己心から生じるもの
まやかしの必要性
哲学とは、結論よりも議論の過程を重視するタイプの思考法
2種類の人間
道徳的な善悪を基本とする人
道徳外的な好悪を基本とする人
この2種類の人は互いに何を言っているのか理解できない
後者のほうが一段階メタだなmrsekut.icon
つまり、ニーチェは前者である
後者の立場から見ればソレは既に脱出済みなので、その意味で始めから超人である