行間を読む人と読まない人の食い違い
文章で主張を読むときに、行間を読まないのは誠実な態度 行間をよんでしまうと、連想ゲームが起きて正しく意図が伝わらない この態度の前提
書き手は暗黙の主張はしない
書き手が自分の意見を言語化できないことを考慮しない」
ちょっと強い仮定
Twitterのバズツイートのスレッドを見ると「私が言いたかったことが言語化されている(意訳)」というようなのを見かける
日常会話はコンテキストがある=行間を読むことが前提になっている いちいち説明するのは面倒
実際には、誤解も起こりまくっているはず
この差異によって食い違いが起きるのをしばしば見る
議論の対象になる元の文章「職業Jの人がAをやっていた。最悪だと思う」
行間を読む人「元の文章において、Jの人は最悪だと言っているが、私は違うと思う」
行間を読まない人「そんなことは主張されていない。AをやっていないJの人については未評価だ」
行間を読む人「Aという行動は職業Jに密接に関わっているし、結びつけて読まない方が不自然では?」
行間を読まない人「でもそんなことは元ツイートでは主張されていませんよね」
関連
言語行為論で有名な区別に「事実確認的 constavive」と「行為遂行的 performative」というのがある。ぼく(引用者注:東浩紀)の読者だったら知っていることだろう。ツイートしやすくするため以下C型P型と呼称する。 たとえばAさんがBさんに「あなたの仕事、なんの意味があるんですか?」と尋ねたとする。事実確認的には単に意義を尋ねたにすぎない。けれど多くの場合、行為遂行的には「あなたの仕事意味ないと思うんすけど」という軽蔑を含む。そしてある文章をどちらで解釈すべきかは、形式的には決定できない。