著作権を認めることの弊害
著作権を守ろうという話はよく聞くが、著作権を認めると起こることもある @fukuikensaku: 著作権は、全世界にわたっておよそ100年もの間、創作者と遺族がその対象の利用をほぼ独占できる大変強力な権利ですから、アイディアや着想全般に認めると、人類の発展は深刻な停滞を余儀なくされるのですね。 著作権てむちゃくちゃ強い権利なんですよ。
創作した瞬間に発生して登録も不要、その表現を真似した人に「やめろ」「使用料を払え」と主張できる。
しかも死後70年までですよ。
100年以上もその表現を独占できるわけです。
世界観やタッチをそこまで独占させていいのかという話ですね
僕は、著作権と言うものの権利性を強くとらえることは、インターネットの世界ではよくないのではないと考えています。 著作権も財産権のひとつとして、憲法で保障されていることは当然ですが、表現の自由は、人が生まれながらにしてもつ根源的な権利として、財産権よりも優越的地位を有するというのが、憲法学者の通説的理解です 著作権をあまり厳格にとらえ過ぎると、表現手段の多くを資本家が握っている現状では、著作権が表現の囲み込み手段のひとつとなってしまう可能性があります。表現をするたびに著作権者に使用料金を払わなければならないというのでは、かえって、文化の自由な発展を阻害してしまいます。
したがって、あまり著作権を厳格に適用することは、もともとインターネットが持っていた「素人が自由に表現を発信できる」という利点を、すべて奪ってしまうことにつながりかねません。
個人が無償で表現を発信することは、表現の自由の本来的な方法ですから、他の表現を引用することは許されてしかるべきだというのが私の意見です。
著作権は、一種の知的財産権の囲み込み運動のようなものです。資本の囲い込み運動に対しては、過去には労働者の側から闘おうという運動が起こりました。
ところがいまは、著作権の囲み込み運動に対して、市民のほうで闘うべきだという議論がほとんど聞かれません。むしろ、サイバースペース上では、著作権を考えるあまり、どこまで引用できるかについて、利用者のほうで萎縮しつつあるのが現状ではないでしょうか。
しかし、表現の自由こそ、人間の本質的権利です。著作権という人間のつくった権利によって、表現の自由がせばめられていくのは本末転倒です。