批判とどこまで向き合うか
批判と向き合うことがなぜ大事なのか?
自分の成長のため
誤解や不勉強に基づく誤りかもしれない
各人はそれぞれどう成長したいのか違うことに注意
「自分の成長」には他人への貢献も含まれる場合があることに注意
不要な軋轢を生まないため
目的を達しつつ回避できるかもしれない
裏を返せば、自分の成長にならなかったり、無駄な軋轢をうまないなら、批判と向き合う必要はない
意味の全くない議論というのはほぼ存在しない。少し注意深くなる必要がある
一方、コスパが悪くてもやらなければいけないことはある
自分が何に重きをおいているかで、選択が変わる
そうは言っても、全ての批判と向き合わないといけないという妄執に囚われることがある
自分は他人と真摯に向き合っていないのではないか?という考えが常に頭の中をこだまする
他人にそれを指摘される
他人にとってはその指摘は半分本当半分嘘の話術の一つに過ぎないこともある
極端な場合を考える
向き合うべきでない批判は存在する
目的の上では避けられない批判の場合
自分にとって得るものが限りなく0なので不毛。機会費用の観点で向き合うべきではない
線引はどこか?
費やせる時間
手持ちの時間 - やるべきことをやる時間しか残されていない
フローチャートあり
こちらから何もお願いしていないのに、コメントや意見を言ってくる人は、正しかろうと、間違っていようと、根本的に他人の人生に口出しをする「余計なお世話」の人なのだ。そういう人たちの気持ちを思いやってあげる義務は、あなたにはない。最も大切なのは「自分を守る」ことなのだ。
この場合自分の発言を誰かに届けるという意識はないと思われる
ある場合、自分の言葉は誰かに届けたいが、他の人の言葉は受け取りたくないという状態になる
場からメリットだけ享受しているように思える
そういうプラットフォームを設計することは可能だろうか?
平時では自己中心的となる思想が、非常事態には身を守る
相対化(矮小化)する
より大きな困難と比較する
ヒラリーは、普通の人ならたったひとつでも立ち上がることができないような大きな挫折を誰よりも多く体験したサバイバーの女性である。だから私は、理不尽な攻撃をされたときには、「ヒラリーが体験したことに比べたら、こんなのたいしたことではない」と思うようにしている
うける人が増えると必ず批判をする人が出てくる
自分が傷つくとやる気がなくなってプロジェクトが進まらなくなるので、傷ついてはいけない
気にしないと言っても気にしてしまう。どうする?
夏には蝉がなく。自然現象である
怯えた猫
否定が目的の人に見当違いな反論は時間の無駄
これはパブリックイメージの問題は捨象している
良さの定義が違う人とは議論が成立しない