同和問題
史料では、すでに鎌倉時代中期の文献に部落差別の原型が記述されています。
その後、16世紀末に豊臣秀吉は、農民が田畑から離れることを禁じるために、武士と町民・農民とを分けた身分制度を作りました。 この身分制度をさらに進めるため、徳川幕府は歴史的、社会的な経緯で差別されていた一部の人々を、著しく低い身分として固定し、職業や住むところを制限しました。
こうして被差別部落の形成が進み、その多くが生活や暮らしが低いレベルにおかれていったといわれています。
1965(昭和 )年8月に「同和対策審議会答申」が出さ れ、同和問題の解決に向けて、様々な取り組みがなされました
同和対策審議会答申は、内閣総理大臣の諮問機関として設けられた同和対策審議会が、1965(昭和40)年8月、「同和地区に関する社会的及び経済的諸問題を解決するための基本方策」について約4年間かけて審議した結果をまとめた答申です。
同和対策審議会答申
同和対策審議会 会長 木村 忠二郎
1.同和問題の本質
いわゆる同和問題とは、日本社会の歴史的発展の過程において形成された身分階層構造に基づく差別により、日本国民の一部の集団が経済的・社会的・文化的に低位の状態におかれ、現代社会においても、なおいちじるしく基本的人権を侵害され、とくに、近代社会の原理として何人にも保障されている市民的権利と自由を完全に保障されていないという、もっとも深刻にして重大な社会問題である。 一部の人々は長い間、住む場所、職業、結婚、交際、服装など、生活のあらゆる面で厳しい制限を受け、差別されていました。
その特徴は、多数の国民が社会的現実としての差別があるために一定地域に共同体的集落を形成していることにある。最近この集団的居住地域から離脱して一般地区に混在するものも多くなってきているが、それらの人々もまた伝統的集落の出身なるがゆえに陰に陽に身分的差別のあつかいをうけている。
集落をつくっている住民は、かつて「特殊部落」「後進部落」「細民部落」など蔑称でよばれ、現在でも「未解決部落」または「部落」などとよばれ、明らかな差別の対象となっているのである。
この「未解決部落」または「同和関係地区」(以下単に「同和地区」という。)の起源や沿革については、人種的起源説、宗教的起源説、職業的起源説、政治的起源説などの諸説がある。しかし、本審議会は、これら同和地区の起源を学問的に究明することを任務とするものではない。
すなわち、同和問題は、日本民族、日本国民のなかの身分的差別をうける少数集団の問題である。同和地区は、中世末期ないしは近世初期において、封建社会の政治的、経済的、社会的諸条件に規制せられ、一定地域に定着して居住することにより形成された集落である。
当時共産党系の派閥は、「答申」を「毒まんじゅう」であり自民党との妥協の産物であると批判した。一方、社会党系の派閥は「答申」を運動の武器になるとして評価した。佐々木隆爾によると、この部落解放同盟の分裂劇の裏側には、部落解放運動の主流から共産党勢力を排除し、部落解放同盟内の利権派に主導権を握らせ、部落解放運動を体制の中に取り込もうとする旧内務省系の自民党右派議員グループ「素心会」の思惑があったという。以後、1970年代にかけて共産党系の勢力が社会党系の勢力に排除され、今日に至る。このような経緯から、共産党と部落解放同盟は反目を続けている。
分裂前の部落解放同盟に対して「共産党とさえ手を切ってくれるなら同和対策に金はいくらでも出そう」という誘いがさまざまな筋からあり、北原泰作は断ったが、これに乗ってしまったのが朝田善之助だったともいう
1922 全国水平社
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