士(農工商)・穢多非人
実際には、支配層となる「武士」以外は、農村に住む「百姓」と、主に城下町に暮らす「町人」という形で居住地によって区分されていました。職業によって分けられていたわけではなく、農村に暮らす職人や商人も、区分としては「百姓」として扱われたようです。
また幕府は、百姓と町人の間には序列を設けておらず、両者の間に上下関係は存在しませんでした。
日本では平安時代頃から、天変地異や死、出血、犯罪など通常の状態を変化させる出来事を「穢れ(けがれ)」と呼び、これを避ける風習がありました。そして「穢れ」を元の状態に戻すために、清める人々も必要とされていたのです。
しかし室町時代頃から、これらの人々は異質な存在として差別を受けるようになります。江戸時代以前には「河原者」や「道々の者」など、さまざま呼称で呼ばれるようになりました。 江戸時代に入ると、差別はさらに強まることになります。幕府や藩が出すお触れにより、かつての「河原者」は、「えた」や「ひにん」と呼ばれるようになり、百姓や町人と異なる立場として身分制から除外されたのです。
この差別は近代に入ってからも続き、「部落差別」として今日にまで禍根を残しています。
「えた」や「ひにん」と呼ばれた人々は、地域によってさまざまな役割をもちました。
「えた」は、農林漁業を営みつつ、死んだ牛馬から革製品を製造するほか、犯罪者の捕縛や刑死者の埋葬などに従事していたそう。
「ひにん」は、町や村の警備、芸能などに従事したといわれています。
詳しい
〜2004年の文献調査
リファレンスは薄い