ノウアスフィアの開墾
In this paper, I examine in detail the property and ownership customs of the open-source culture. Yes, it does have property customs — and rather elaborate ones too, which reveal an underlying gift culture in which hackers compete amicably for peer repute. This analysis has large implications for anyone interested in organizing large-scale intellectual collaborations.
open-sourceのライセンスで定義された「公式」イデオロギーとハッカーたちの実際の行動には矛盾が観察される。これをふまえて、ぼくたちはオープンソースソフトの所有権とコントロールをめぐる実際の慣習を検討する。そこで明らかになったのは、そうした慣習の根底にあるのが、ロックの土地保有に関する理論と類似した、所有権の理論であるということだ。これと関連づけるかたちで、ハッカー文化を「贈与文化」として分析する。つまりそこの参加者たちは時間とエネルギーと創造性をあげてしまうことで、名声を競うわけだ。さらにこの分析が、ハッカー文化における紛争解決にとってどのような意味を持つかを検討し、いくつかの処方箋的な示唆を得るものとする。 オープンソースはよいとみんないうが、様々
熱狂的かそうでないか
商用ソフトへの敵意
商用ソフトで市場を支配した企業への敵意
歴史的にいうと、もっとも目に見えて、いちばんよく組織化されていたハッカー文化の部分は、きわめて熱狂的で、非常に反商業的だった。リチャード・M・ストールマン(Richard M. Stallman, RMS)の創設したフリーソフトウェア財団(Free Software Foundation, FSF)は 1980 年代初期以来、大量のオープンソース開発を支援してきた。そのなかには、Emacs や GCC のような、インターネット・オープンソース界にとって、いまでも、そしてこの先当分の間も、基本となるツールであり続けるようなものも含まれている。 ? ストールマンはなぜ反商業主義だったの?
RMS 自身は、自分が反商業主義であることを否定している。でもかれの活動は、そのもっとも活発な支持者たちを含め、ほとんどの人からそのように受け取られている
1970年代の後半から1980年代の初めにかけて、MITのハッカー文化は徐々に解体していったが、ストールマンはこの衰退に対する熱烈な批判者として活躍した。
? MITのハッカー文化とはなにか
1977年ごろ
ソースコードを配布するという文化が廃れ、コピーライトを用いてコピーや再配布を制限するのが一般化した。この代表がScribeであり、1979年にはこのソフトウェアに一種の「時限装置」が組み込まれ、ライセンス無しのアクセスが強力に禁止されるに至る。この制約に対して、ストールマンは「(ユーザーの自由を制限することは)人類に対する罪である」と痛烈に批判する。
ストールマンは質素な生活で知られる。たとえば、彼は、リサーチ・アフィリエイトとしてMITに在籍しているが無給である。また、同大学のCSAIL(コンピュータ科学・人工知能研究所)にオフィスを構えている以外には、定住のための住居を持っていない。彼は、この生活について「私はいつも安上がりな生活をしてきた……つまり学生みたいにね。私はそういう生活が好きなんだ。そういう生活なら、カネの言いなりになる必要がないからね」としている。
1983年GNUプロジェクトを発表
プラグマティストは商業のソフトウェアよりもオープンソースのほうが技術的な品質が高かったので同調。ただしコミュニティ形成に失敗した(1993年以降のLinuxの爆発までは) Linux以後は反商業的な姿勢のほうが少数派になった
事態がどれだけ変わったかがはっきりしたのは、1998年2月に Netscape 社が Navigator 5.0 をソースコードで配布すると発表したときだった。これは企業世界での「フリーソフト」に対する興味をかきたてることになった。これに続いてハッカー文化に対し、このかつてない機会を利用しつくすとともに、その成果を「フリーソフト」から「オープンソース」と命名しなおそうという呼びかけが行われたけれど、これに対しては即座にものすごい支持が得られたので、関係者はだれしもびっくりしたほどだ。
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