ウィリアム・ローワン・ハミルトン
ハミルトン
(William Rowan Hamilton、1805年8月4日 - 1865年9月2日)19世紀 四元数と呼ばれる高次複素数を発見したことで知られる。 また、イングランドの数学者アーサー・ケイリーに与えた影響は大きい。 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/81/WilliamRowanHamilton.jpeg/225px-WilliamRowanHamilton.jpeg
幼い頃より神童として知られ、10歳で10カ国語(英語、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語、アラビア語、サンスクリット語など)を操るなど才能は図抜けていた。
この頃わずか16歳にしてラプラスの『天体力学』に誤りを発見し、専門家を驚かせた。
大学入学後も圧倒的な才気を見せ、学部四年で天文台長に推挙されている。
才能に溢れ、身体、精神共に快活なハミルトンは社交界でも人気を集め、親友の詩人ワーズワースは、ハミルトンとコールリッジを挙げて「私の出会った最も魅力的な人物」とすら述べている。
数学理論による自然現象の予言、
代数系の基礎付け
など、前半生の業績は非常に華々しく、「ニュートンの再来」と呼ばれた当時の評判に恥じない物がある。
複素数を実数と演算規則により公理化していたハミルトンは、複素数を三次以上に一般化する事に心血を注ぎ、
十年程を経た1843年10月16日、ブルーム橋にさしかかった所でついに四元数の概念に到達する。 四則演算を保存しない四元数は極めて斬新なアイデアで、その後の代数学全体に多大な影響を残した。
しかし当のハミルトンは、四元数の実用化に取り憑かれ、その後約20年を四元数の研究に費やすようになる。
700ページを超す大著『四元数講義』はド・モルガン、ハーシェルらに難解と評され、
『四元数の基礎』を著するがこれも長過ぎて生前に出版される事はなかった。
晩年のハミルトンは、アルコール中毒に溺れながら誰にも理解される事のない数学研究に没頭し、暴飲暴食による痛風に苦しんだ末に1865年にダブリンの自宅で息を引き取った。
遺体が発見された時、ハミルトンの部屋は酒と肉汁にまみれた二百数十冊のノートで埋め尽くされており、
この中には正しい物、誤った物、判断のつかない物が入り混じった数式の山が残されていたという。
また四元数は一部に「四元数カルト」と呼ぶべき一団を構成するものの、大勢からは無視され、省みられるまでに100年ほどの時間を必要とした。