心の進化を解明する
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ダニエルC デネット
哲学書であるので、あくまで言語やミーム概念の理論的理解のために読む。
よって仔細な存在論や定義に執着せず、語や、ミーム。
文化的遺伝子各々の理論的関係性について考察を深めたい。
意識や情報に対する、現代哲学における
仔細なやり取りも、非常に応用性がある。
残りは論文と引用の参考に。
引用元は保存する必要がある。
ミーム概念
リチャード・ドーキンス
考察
理解力なき有能性の存在を進化生物学と、コンピューターから規定することによって、
ダーウィンとチューリングが旧態依然たる目的論に対して、
「あたかも目的と理由を持つように見える」という
理解力がなくても理由は存在し得るし、
デザインや有能性において、恣意性は必須条件でないことを示す。
情報について
情報については、その構造と、
情報の性質は文脈(観測者)に依存する。
この場合における性質は情報の正誤を含む。
ノーバート・ウィーナー(Wiener 1961, p132)、
「情報は情報であり 物質やエネルギーではない。こんにち、この点を認めないどんな唯物論も生き延びることはできない」。
ここでいう情報はシャノン的である。
Miyabi.iconナラティブの進化生物学的な説明といえる。
つまるところ、「文化進化」に関する理論であり、
同時に、「言語進化」についてかたることもある。
この仮定では、遺伝子的な文化単位の感染と増殖について、疫学のモデル等を用いて
説明できる。この点に関して、鋭い疑念に対し、著者が誠実かつクリティカルに答えているので、
議論の土台として理解しておくべきだろう
Miyabi.icon情報における意味論について
幾何学的構造を示すある系に対すして、観測者の見出す、有用性ある特有の構造が意味であり、
そうした幾何学的意味を統計的に集約したものが、概念として形をとるものである。
*この場合の観測者に、主観的理解力は必要無い。
目的論の死とポスト・ダーウィン的目的論
ダーウィンはアリストテレスの学説、
すなわち、世界内のす べてのものには目的つまり存在理由がある、
という学説を乗り越えた人物である。
アリストテレスの telos 〔目的、終局〕
1それは何からできているか、つまりそれの質料因は何か?
2 それはどのような構造をしているか、つまりそれの形相因は何か?
3 それはどのようにして始まったか、つまりそれの作用因は何か?
ギリシャ語で言うと telos 〔目的、終局〕 であり、
英語の teleology 〔目的論、目的論的な過程はこの言葉に由来している。
「ここでは、自然諸科学における 『〈目的論〉』に対して、
史上初の致命的打撃が加えられているだけでなく、それらの合理的な意味が経験的に説明されてもいる」
私たちは、諸々の自然現象の「合理的な意味」を、
古びた目的論(エンテレケイアや〈知的造物主〉なしで「経験的に説明」できる以上、
旧態依然たる目的論を、新たなポスト・ダーウィン的目的論で置き換えることができる。
進化の過程が目的と理由を存在せしめるやり方は、
それらの過程が色覚を存在せしめるのと同じ、漸進的なやり方である。
私たちが、諸理由の世界という人間的な世界が、
いかなる理由も存在していなかった世界からどのように生じてきたのかを理解するならば、
私たちは、色や生命が実在するのと同じぐらいに、
目的と理由もまた実在すると分かるようになるだろう。
推論の前提的構え
私たちがさまざまな現象を理解し、説明し、予測するために採用する、
異なっているが互いに密接に関係し合う三つの戦略ないし構え
物理的構え
デザイン的構え
志向的構え
物理的構えはリスクが最小であるが、最も困難でもある。
この場合人は当該の現象を物理的対象として、
つまり物理学の諸法則に従っているものとして取り扱い、難解な物理学を理解利用することで、
次に何が起こるはずかを予測する。
デザイン的構えが適用できるのは、人工物であれ、 生物であれ、
その一部分であれ、デザインされていて、機能ないし目的をもつものに限定される。
志向的構えは、第一義的には、自らの機能を遂行するために情報を利用するように
デザインされた事物に対して用いられる。
この構えは、事物を合理的な行為者として扱い、
その事物に「信念」、「欲求」、「合理性」を帰し、その事物は合理的に行為するはずだと予測する、
という仕方で用いられ る。
『ダーウィンの危険な思想』 (Dennett 1995)
進化とはアルゴリズム的な過程であると論じた。
つ まり進化とは複数のふるい分けアルゴリズムの集積体であり、
このアルゴリズム自身が複数の生成テスト・アルゴリズムから組織されている。
各々のアルゴリズムは生成の段階と、無精神的に進むある種の品質管理テストの段階において
ランダム性(擬似ランダム性つまりカオス)を利用し、
結果としてより多く子孫を残すトーナメント戦の勝者が出てくるのである。
このような多くの生成過程の多段連鎖はいかにして進み始めるのだろうか?
無生命的な世界の再帰的秩序が「発生」の蓋然性を高める。
前生命的、ないしは無生命的な世界は完全なカオスであるわけではない。
つまりそれは運動する原子のランダムでたらめなパレードだったというわけではない。
特に注目すべきは、そこにはそれぞれさまざまな時間的、 空間的な尺度にまたがる、
数多くのサイクルがあったということである
四季、夜と昼、潮の満ち干、 水の循環、それに原子と分子のレベルに見いだされる、何千もの化学回路など。
これらのサイクルを、アルゴリズムにおける「ドゥ・ループ」
「一定の命令の複数回の繰り返しを命じる命令]である。
そのループは出発し、何かを集積する、何かを動かす、 何かをふるい分けるなど、それを反復し、
その中で漸進的に世界の状態 を変化させ、何らかの新たなものが生じそうな蓋然性を高めるのである。
理解力なき有能性
計算を行うのに算術のなんたるかの意味を知る必要はない。
アランチューリング
ダーウィンとチューリングは共に、人間の心にとって真に心休まらぬものを発見したのである――
すなわち 理解力なき有能性という発見を。
〈観察された有能性が理解力への訴えなしに説明されうるならば、途方もない擬人化にふけってはならない〉ということを、
理解力の帰属のための規則にしなければならない。
理解力ないし理解を、分離された独立独歩の心的驚異とするこのような考え方は、
古くから存在しているが今では廃れてしまった考え方である。
* デカルトの思惟スル事物
* カントの レス・コギタンス 『純粋理性批判』
* ディルタイの Verstehen 〔理解、了解〕
理解とは
1 何らかの分離可能な心的現象であると見なす錯覚は、 理解とは、関連する諸々 の有能性の集まりより以上のものであり、
その有能性の中には、適切な時に他の有能性を行使するためのメタ有能性も含まれる
エウレカ効果
それまで当惑させられていたものの理解を自分が まさに成し遂げていることを突如自覚する瞬間 によって助長される。
突発的な理解の到来は、理解がある種の経験であることの証明であると容易に誤解されうる。
その生物にとっての望ましい生存に関連するすべてのものからなる、これは、行動の環境という概念において先取りされていた。
心理学者 J・J・ギブソン (Gibson 1979)
それは「環境が動物に対して利益または害悪として差し出すところのもの」であるとされる。
何らかの動物の環境における重要性を備えた機会のこと。
食べるための対象、つがいの対象、通り抜けるため、 あるいは見渡すための空き地、隠れるための穴、等々。
フォン・ユクスキュル もギブソンも、
至る所アフォーダンスに満ちた環境世界を備えているということが、
意識を含むことになるのかどうか、ということについては沈黙している。
ダーウィン的有能性
動物、植物、さらには微生物すらも、
彼らの環境のアフォーダンスに適切に対処できるような有能性を備えている。
これらの有能性のすべてについて浮遊理由が存在しているが、
しかし生物はその浮遊理由から利益を得るために、
それを評価したり理解したりする必要はないし、それを意識する必要 もない。
より複雑な行動を行う動物においては、彼らが示す多能性と可変性の度合いに応じて、
彼らにあ 理解力というものを、ある種の独立独歩の才能であり、有能性の顕れではなく有能性の源なのだ
意味論としての情報
意味論的情報と言える情報への考察
情報概念を、「形式を規定するところのもの」と定義していた(Mackay 1968, p.159 )。
この定義は、〈正当化〉や〈価値〉といった主題を取り扱えるように保持する一方、
何らかの 狭い意味での表象というものには深く関わらない定義なのである。 ✅考察
ここでの正当性は構造の理解に対する主観者のベクトルを正当化や、向き的、性質的意味として捉え
価値に対しては、社会的環境(多数の観測者の存在)においても普遍的、
情報的構造の重みとすることができる。
情報というものが<[重要な〕差異を作り出す区別〉だとすると、
私たちはある問いかけへと導かれるこ とになる――
つまりその〔重要な〕 差異は誰にとってのものなのだろうか?
すなわち誰が利益を得るのか?
この問いかけこそが、経済的情報と生物学的情報とを一つにまとめ、
意味論的情報という大きな分類に括っている。
この問いかけによって、私たちは誤情報と虚偽情報とを、
依存的、寄生的な種類の情報として特徴づけることができるようになる。
誤情報の創発は,
有益な情報を引き出すor
有益な情報に依存するようにデザインされたシステムが関わっている文脈の中に限られる.
✅考察
ここから、情報における観測問題を考えることに繋がる。
ダーウィンのよる意味論の反転
自然選択の場これこそ〈ダーウィンの奇妙な推理〉の逆転の要である。
創造論者の疑問に対するダーウィンの回答は単純だ―
―それは漸進的で、目的を欠く、奇跡ならざるやり方による何十億年もかけた、
ノイズの情報への転換に由来するのだー
何か新たな「コード化」を確立するような革新がなされたとすると、
その革新はそもそもの最初から適応度増大の効果をもっていなければならない。
それゆえ、何かが意味論的情報を運ぶ能力をもつ場合、
その能力をあらかじめ要素の一部に組み込んだコードに依存することはありえないのである。
シャノンの情報理論
情報は、その量に於いては物理的だが、その意味に於いては観測者主観的であり、相対的構造である。
ある何らかの信号祖先が発した遺伝的な信号〔つまり遺伝子によって受け継がれる情報〕であれ
感覚経験から得られる環境からの信号であれ
どれほどの量の意味論的情報を「運んで」いるのかについての特権的な尺度は今後も存在しないはずである。
シャノンが自覚していたように、情報とは常に受信者がすでに何を知っているのかに相対的なものであり、
たとえモデル中では信号と受信者にさまざまな境界線を「押しつける」ことができるとしても、
現実生活におけるそれらの境界線は、それを取り巻く文脈ともども、穴だらけなのである。
そのシステムが取り扱うための備えをもたない環境に対して誤って適用されてしまったことの結果として生じる。
妄想や錯覚 [幻想〕が認知神経科学における証拠の豊かな源泉と なっているのはこれが理由であり、
つまりそれらの現象はその生き物が通常の場合に何を信頼しているのか多くのヒントを提供してくれるのである。
知覚における脳の仕事とは、
感覚器官に衝き当たるエネルギーの流れの中から、
注目に値する特徴だけを抽出し、それ以外取り除き、無視することである。
その流れの中のランダムならざるものはすべて、何らかの生物または行為者が、
未来を予期するために利用しうる潜在的に有益な情報であり、そのようなものの実在するパターンである。
何らかの行為者の世界の中の、このような実在するパターンの内、その行為者の環境世界、
すなわちアフォーダンスの集合を構成するのは、そのごく小さな部分集合のみである。
それらのパターンは、行為者が自らの存在論の中でもつべき諸事物 であり、
つまり行為者が注意を向けるべき、諸事物である。
その 流れの中のそれ以外の実在するパターンは、その行為者に関する限りは、単なるノイズである。
私たちの 観点から見るとき、ある生物にとって極度に重要なのに、
その生物はそれを 検知する装備を端的に欠いているような意味論的情報が存在していることを目にする。
その情報は実際に 光の中に存在しているのだが、その生物にとっては存在していないのである。
ダーウィン
進化について考える新しい道具
ダーウィンは『種の起源』第4章に付された要約で、
自然選択による進化を理解するための基本的な枠組みを提供している。
「もし長い時間が経過し、生の条件が変化し続ける中で、
生物がその組織の何らかの部分で何らかの変化をするとしたら私としてはこれに異論の余地はありえないと思うのだが、
そしてもし、ある世代、ある季節、あるいはある年に、それぞれの種の高い幾何学的〔指数関数的〕増殖力によって、
何らかの生存競争が生じるとしたらこのこともまた異論の余地はありえないのだが――、
その場合、すべての生物の、生物相互、および生物とその生存の条件となるもの〔環境〕との間の諸関係の無限の複雑性が、
そしてそれがそれらの生物に有利に働くと考えるならば、人間にとって有益な非常に多くの変異が生じているのと同じ仕方で、
その生物自身の幸福に有益な変異が生じることが一切ないとしたら、それはこの上もなく異例なことであろうと私は思う。
だが、何らかの生物に有益な変異がもし生じることがあるとしたら、
そのように特徴づけられる個体は生存競争において生き残る機会が最も大きいことになる。
そして遺伝という強力な原理によって、彼らは同様の特徴をもつ子孫たちを産み出すことになる。
このような保存の原理を、呼称の簡略さを期すために、私は〈自然選択〉と呼んできた。」
自然選択の一般性
その中でも、単純性、一般性、明晰性について最も優れている定式化はほぼ間違いなく、生物学の哲学者、
ピーター・ゴドフリー・スミスによる次の三つ組の定式化である (Godfrey-Smith 2007)。
自然選択による進化は個体群中の変化であり、それは次のものに由来する、
(i)個体群のメンバーの形質特徴に生じる変異であり、リプロダクション (i) 自己複製の割合の差異を引き起こし
(Ⅲ) 遺伝的である。
この三つの要因すべてが存在しているときにはいつでも、
自然選択による進化が不可避の帰結として生じるのであり、
これはその個体群を構成しているのが生物であろうと、ウィルスであろうと、プログラムであろうと、語であろうと、
その他自らのコピーを何らかの仕方で生み出す諸事物であっても関わりなく生じる。
人間文化は明瞭にダーウィン的なものから出発し、当初はシロアリが蟻塚 を建てるのとおおむね似たやり方で、
さまざまな有益な構造を生み出す、理解力を欠く有能性にもとづく ものであったのであり、
そこから徐々に脱ダーウィン化していき、理解力をますます増進させ
組織を作ることがますますうまくなり、デザイン空間を調査するやり方がますます効率的になっていった。
要するに、人間の文化は、進化を続けるにつれてそれ自身の成果を自ら取り込み、
情報を利用してデザインを行う力を増進させ、しかもそれをますま す強力なやり方で行うようになってきた、ということである。
情報的存在論と「語トークン」の自然選択的な性質
サイバネティク スの父、ノーバート・ウィーナー(Wiener 1961, p132)、
「情報は情報であり物質やエネルギーではない。こんにち、この点を認めないどんな唯物論も生き延びることはできない」。
情報的な存在物が心をもつわけではないのは、言うまでもない。
だが、ウィルス同様、それは進化によって自己複製するチャンスを作り、
そのチャンスを増やすようにデザインされているし、
またそれが産み出すあらゆるトークンはいずれもそれの子孫に属する。
その子孫たちからなるトークンの集合は、一つのタイプから発したトークンの子孫であり、
それゆえその集合は〔生物の〕種に似ている。
私たちはここでトークンを区別し続けることへのためらいを評価できる。
というのも、トークンは新たなタイプが創発するに至るまで、徐々に変化し続ける。
トークンの子孫は、私的な発語として生じるだろう。その宿主である人間は、自分だけに語りかけており、
もしかすると心の中の語を強迫的に延々と繰り返しているのかもしれない。
これはトークンの個体数爆発であり、脳内でそのトークン自身のために、
それまでより一層堅固な生態的地位を構築する営みである。
言語の効用
コミュニケーションの効用。
命令し、要求し、知らせ、問いただし、教え、霊感を吹き込み、
怯えさ せ、なだめ、誘惑し、愉快にさせ、慰める、という言語の力。
数の異なった意味(文および発話)を、有限個数の辞書的項目の蓄積から生成するという言語の力。
形式的に考えれば、文法にかなった英語や日本語の文の数にはいかなる限度もない。
例えば〈語数がn個よりも多い文は存在できな い〉のような規則は存在しないが、
たとえ一文あたりの語数を、例えば二〇個に限定したとしても、
明確に文法的で意味をなし、通常の成人が一度聞いただけで容易に理解できる文の数は、依然として〈超大〉なものになる。
(前の文がかつて誰かによって表明されたことはほぼ決してなかったはずであり、
〔英語原文の〕語数は六三語〔日本語の字数は句読点等含めて一六四字〕だが、何の苦労もなく読める文 -のはずである。)
デジタル性。
言語の受信者/発信者が「規範に合わせて修正する」という言語の能力。
これによって、 たとえ理解できない状態に陥っている場合ですら、ノイズの多くが信号の中から洗い流される。
不在のものへの指し示し。
視野の外、過去、想像や仮説の中など、
コミュニケーションの担い手がいる環境の中に存在していない事物を指し示すという言語の力。
獲得の容易さ。
話し言葉または手話が子供に取り入れられる際の、読み書きや算術などと比較したときの) 目覚ましい素早さ。
ミーム
ドーキンスのミームは文化進化の研究にさまざまな洞察をもたらしたが、
その内の主要な三点を挙げていく
1. 理解力なき有能性。
文化的要素の中には、デザインされたものとしての性格を備えているものがあるが、
その性格は、特定の作者ないし作者集団、建築者、知的デザイナーたちに帰されるわけでは全くない。
その諸部分の配列の疑いようのない賢明さや適合性は、
すべて自然選択情報的共生 者たちの差異化を伴う複製によるものであって、
その共生者の宿主は、無知である。
(人類はしばしば、自分が熱心に拡散する考えの卓越性に高い評価を与えるが、
人間の理解カーおよび賞賛――は、文化においてミームが定着するための必要条件でも、十分条件でもない。)
2.ミームの適応度。
ミームはちょうどウィルスと同じく、自らの自己複製[繁殖〕における適応度をもつ。
あるミームが宿主自分が 運んでいるデザインを採用し、
使用している人間たちの繁殖における適応度を増進させるかど うかは問わず、
自然選択はそのミームそのものに働き続けている。
ミームは、ほんの十年程度で定着することができ、またそれと同じ期間内に絶滅しうる。
これは、人類の産み出す子孫に遺伝的な自然選択が働くには、素早すぎる。
3 ミームとは情報的な事物である。
ミームとは、実行ないし表現されずに
伝達、蓄積、突然変異が可能な「処方箋」である。劣性遺伝子的
ミームの媒介者はそのミームに感染することができ、
またそのミームを自分の行動の中に表現できる他の人間たちがいる環境の中で拡散させる。
ミームが暴く、理解における定義や、理解力への依存性
重要なのは、ミームにもとづく説明が、文化が運ぶ情報が
理解なしで脳にインストールされる仕方について異なった見方を提供できることである。
標準的な見方の問題は、この見方が、志向的構えの中にあらかじめ組み込まれている合理性の前提に、
無批判に依存しているという点にある。
つまりそれは、人々や、さらには「高等」動物たちは、目の前に差し出されたものが何であれ、
それを理解しているはずだという、民俗心理学にとっての初期設定の前提に無批判に依存している。
新奇な考え、「アイデア」、概念は、ほぼ「定義によって」理解されたものだとされる。
考えをもつとは、自分がもつ考えがいかなるものであるかを知ることであり、
デカルトが言ったように、その考え [観念」を明晰かつ判明にすることなのである。
議論したり考察したりするために何らかの考えを特定しようとするとき、
私たちは、その考えをその内容によって特定するのが常であるということに、
私たちはほとんど気がつかない。
これは、理解力は有能性の源であるという、
至るところに見いだされるダーウィン以前の思想の一適用例なのであり、
そして私たちはこの思想を逆転し、それによって、史上初めて、理解力なし有能性が、
いかにして漸進的に産み出されてくるのかを、少なくとも素描することができるようになったということが重要なのだ。
理解力は、デザインや創作の改善のための必要条件ですらない
伝統的な文化理論の論者たちは、個々の発案者の貢献を過大評価しがちであり、
個々の発案者たちが、 彼らが発案し、伝達し、改善したデザインについて、
現実に必要だったよりも大きな理解力をもってい たに違いない、と想像しがちである。
人が自分自身の創作物に、その理論にもとづく修正を加えるとき、
これ以外に、遺伝的な突然変異と同様の、単なる複製の誤りとして新機軸がもたらされることもありうる。
複製された創作物が、純然たる機能的な適応以外に、余分だが無害な要素を採用することもありうる。
後の時代に、この単なる装飾物が何らかの機能を獲得することも、そうはならないこともある。
このように、ミームは機能をもつ修飾物と、単なる伝統にもとづく修飾物との両方を説明できるし、
この二つのカテゴリーを分かつ「明確な一線」を引くことがなぜできないのかを説明する。
いかなる理解力も必須事項ではない。
理解に対する経済学的モデルを採用することは、
文化の中でも有益であることが明らかなものとしての、
その文化のテクノロジー、科学、芸術、建築、文学、
「高踏文化」に対するさしあたりの近似としては適切である。
実際、これらを保存し維持すること、
および存続に役立つものを広めるのが合理的であるということには、
しかるべき経済学的な意味が ある。
現代の人間生活を支えるために必要なすべてのミームを誰か個人がすべて宿している必要はない、
私たちはずっと昔から分業と専門化を確立し、個々人が専門の職業に特化してきた。
ミームの適応度が生物学的適応度より有利になる不思議な人族
それ〔遺伝的適応度〕以外にも自分の命をかける
そしてそのために他者を殺すべきものを見つ け出した唯一の種である―
すなわち、多くのミーム複合体も適応度の概念を持つ。
このバイアスは私たちの 「動物的本性」のほとんど抗しがたい衝動の中にも、
それよりも微妙な、無数の習慣や性向の中にも、現れている。
人は理由によって、単なる浮遊理由ではなく、私たちに対して表象された理由によって、
動かされることが可能である、他の生物の営みには理由があるにしてもその理由はその生物がもつ理由ではない。
動物たちがある理由のために何かをするとき、
その理由に対するその動物自身の理解は全く存在していないか、
ごくごく限定されたものに留まる。
動物たちには、当初彼らが理解しているように見えていたものを、
新しい形式やより広い文脈に向けて一般化し、応用する能力が欠けているのは明らかである。
これとは対照的に、私たち人間は単に、何かを理由のために行う存在であるだけではない。
私たちはし ばしば、私たちがすることの理由を有する。
これが意味するのは、私たちはその理由がどんなものかを自 分自身にはっきりと語ったし、
しかるべき考察の後に、その理由を支持した、ということである。
私たち が、自分がやっていることの理由についてもつ自己理解は、
しばしば不完全で、混乱したものでありうる し、欺瞞的なものですらありうるが、だとしても、
私たちがその理由を所有 できるという事実のおかげで、
私たちは理由にもとづいて語りかけられること、そして理由に訴えて他人に語りかけることができるのである。
〈語 は発音されうるミームである〉
ミームは存在するが、それは語がミームであり、かつ語は存在するからである。
また同様に、その他の非遺伝的に伝達される何かをするやり方もまた存在する。
ミームの意味論的な性格
ミームの純粋に意味論的なレベルでの複製。
『ウェストサイド・ストーリ I』の登場人物と『ロミオとジュリエット』の登場人物の間のいかなる類似点も、
単なる偶然の一致ではないだろう。
この種の意味論的な複製も、ミームの複製の一つに数えられる
ミームとは通常は価値のあ コピーする価値のある情報的構造であり、
著作権法とは、まさにその価値を保護するために考案され洗練されてきたものだ
コピーと見なされた物理的対象は、
原作である物理的対象と何らの物理的性質を共有している必要がないにもかかわらず、そう見なされる。
ミームの伝播
1 発生
人びとの間で、「感染性のある」リズムに乗る娯楽が生まれる。
即興的に人の集まりができあがり、気に入った動作を反 復し、また互いの動作を模倣する-
2 構造化
次の段階は、より自己意識的な儀式である。
意図的な教えや修正も加えられ、これは繁殖〔自己複製〕の注意深い制御による、ダンスの家畜化である。
3体系化 ーコード化
最後に到達するのは、専門的な彼らはミームエンジニアであり、
彼らの芸術的対象を(所有と言えそうなレベルで)知的にデザインし、
それを文化的世界に向け、希望を持って送り出す。
4投票による選択圧
「投票行為」は、人間文化において何度も繰り返し再発明されてきたのであり、
またこれは、個々人の、 当てにならない、信頼性の低い記憶を通じて、
伝達の信頼性を増進させるための、信頼性のあるやり方な のである。
ミーム概念の難点。反論と答弁
ミームなど存在しない!
「語は発話するミームである。」
語は存在するので、ミームも存在する。
言語はほとんど遺伝的に、または時にはウイルス的に振る舞う。
ミームは「離散的」かつ「信頼性のある仕方で伝達される」ものだと述べられているが、
文化的変化の多くはそのいずれにも当てはまらない。
ミームには「離散的で、信頼性の ある仕方で伝達される、遺伝子に似た存在者という含意が備わっている
前述、語はミームであると定義したが。
語とはまさに、極めて「離散的か、信頼性ある仕方で伝達される」存在者であり、
また、語と遺伝子はある点で、似たものなのであり、
ある一点で、語との類比は誤解を招きやすい。
語は遺伝子よりも短いからであり、それゆえ論者の中には遺伝子を文になぞらえる人もいる。
しかし文というのも、別の理由でいい類比ではない。
諸々の固定した文のレパートリーをただ順序を変えて組み合わせることでは、さまざまな本を書くことはできない。
ほとんどの文は、唯一無二のものなのである。この点で遺伝子は語には似ていても、文には似ていない。
つまり遺伝子は異なった文脈で同じものが何度も何度も使い回される、 という使われ方をする。
ミームは遺伝子とは違い、遺伝子座をめぐって競合する対立遺伝子をもたない
遺伝子座とは、異なる遺伝子を比較する際の相対的座標のことである。
ミームにおいては、トークンそれ自体ではなく。
例えば、ナラティブや、音楽、発音などの
体系化された構造の中で、遺伝子座的対応が見られる。
遺伝子座locus
遺伝学において、特定の遺伝子または遺伝子マーカーが存在する染色体上の特定の固定位置である1。 各染色体は多くの遺伝子を持ち、それぞれの遺伝子は異なる位置または遺伝子座を占めている。
考察
遺伝子系には表現系の概念があるので、ミームに反映させるべき
ミームは、私たちが文化についてすでに知っていることに何も付け足さない
観念の歴史や文化人類学の伝統的アプローチは、「合理的行為者」の概念に解釈依存している。
必ずしも選択は恣意的ではないにもかかわらず、
理解され、評価され、望まれて、
つまり合理的行為者の集団的行動によって(計算可能な形で)
実現されてはいない。
ミーム科学と称するものが予測力をもつことはない
ミームからの視点は、遺伝的に伝達される有能さと、理解力に基づく発明
のギャップを、差異を伴う複製によって埋めるものであり、
ランダムでカオスな変異の計算可能な形を示すものではない。
ミームが文化の様々な特徴を説明することはできないが、伝統的社会科学にはそれができる
遺伝子が適応を説明することはない。
遺伝的形質が発現し、適応するには。
たくさんの因果関係が複雑に絡み合う。
よってその説明には様々な学問が必要になるが、
なぜミームは単体でそれほどの有能性を期待されるのだろうか?
文化進化はラマルク主義的進化である
ラマルクは獲得形質の遺伝という概念で知られる。
ラマルク主義的な性質がミームにあっても、
それが、ダーウィン主義と共存しないことにはならない。
もっと言語についての言及もあったのだが、
意味論や形而上学的な解説な上、難解なので次回。
そもそも決定論は意味あるのか 考察
マクロ系においては、熱力学第二法則によりエントロピーは増大する。
生物内部などの限られた系での動的定常を予測することはかのうだが、
これは、カオス系の計算可能性を意味しない。
因果や境界についても、前ダーウィン的な論理における「決定性」
は、ほとんど意味をなさない。
意識における、
「どこからが意識なのか?」という問いは
そもそも前提的な、「意識に一般性のある本質は存在するのか?」
という問いがあって然るべきだし。
おそらくその答えは
「意識には多様な形質が存在する」だろうが
境界線を引く行為そのものには、
我々もしくは高度な意識は「〇〇を有し」ていると
定義的に論証せねばならない
ようは、前ダーウィン的な決定論チックに
「イメージしようもないので、わかりようもない」
という論理じゃ、意識の同定や性質の理解をすすめる
科学的、論証的誠実さがないということ。
まとめ部分
私たちは心という問題と、デカルトによるこの問題の有力な二極化から出発した。
一方の側には、物質 と運動とエネルギーに関する科学、およびそれらが、進化の働きによって
いかに生命を支えているかに 関する科学があり、他方の側には、ごく親密でなじみ深いが、
同時に際立って神秘的で私秘的な現象とし ての意識がある。
この二元論の傷「デカルトの傷」をいかにして癒すことができるのか?
ダーウィンニズムの、哲学的革命
この問題を解くための最初の一歩は、ダーウィンの奇妙な推理の逆転であると私は論じた。
この逆転は革命的な洞察であり、それによれば、生命圏に存在するすべてのデザインは、
究極的には盲目的で、理解力を欠き、目的もない過程としての自然選択の産物でありうるし、
そうあらざるをえない、ということになる。もはや私たちは、〈心〉をそれ以外の万物の〈原因〉と見なす必要がないのである。
自然選択の生む浮遊理由
自然選択による進化が無精神的に見つけだすのは、
すなわち諸々の浮遊理由であり、それらの理由が、生物はなぜこのようなあり方をして いるのかを部分的に説明する。
この説明は、「いかにして生じたのか?」および「何のためにあるのか?」 という二つの問いに共に答える説明である。
チューリングの推理の逆転
もう一つの理解力なき有効性
コンピュータ。
まずダーウィンが、自然選択の過程そのものの中で働く、 理解力なき有能性の最初の偉大な例を提供した。
次にチューリングの奇妙な推理の逆転がもう一つの例を提供し、
理解力なき有能性の別の変種の可能性を探求するための作業台となった。
その第二の例こそコンピューターである。
それはかつてその名で呼ばれていた計算技師たちとは異なり、
自らが極めて有能に利用する技法を、理解している必要がない存在である。
理解力をほとんど要しない有能性によって達成されるものは、非常に多く存在する。
心と理解力はいかに生じるのか?
理解力とは何のために存在し、
またバッハやガウディのような人間の心はいかにして生じたのか? という難問である。
コンピューターは、理解力ある人間の思考者のために、
それまで取り置かれていた作業を達成できるが、
その際コンピューターは情報をどのように理解しているのだろうか?
この問いをより詳しく見ていくことは、
自然選択そのものが示す「ボトムアップ式」のデザイン過程と、
「トップダウンインテリジェント式」の知的デザインの過程との
区別をはっきりさせるのに役立つ。
この区別から引き出されるのが、
盗用する価値のあるデザインとしての情報――
「盗用する」は購入する」や「コピーする」に置き換えて 構わない――という考え方である。
シャノンによる卓抜な情報理論は、
基本的な考え方―すなわち
[重要な〕差異を作り出す差異〔としての情報〕という考え方をはっきりさせて、
この考え方の健全な理論的居場所と、情報を測定する方法を提供した。
しかし私たちには、そこから違う方面へ進み、その差異を作るものは、
なぜそもそも測定するに値するほどの価値をもつのか?
という問いを検討する必要があった。
ダーウィンのダーウィン的進化
自然選択による進化の過程は一様ではなくさまざまであり、
ある過程は他の過程よりも「よりダーウィン的」であるが、
ただしどの過程も同程度に実在的で、
それぞれの生物の生態的地位において同程度に重 要である。
そしてそれゆえ、ダーウィニズムのダーウィニズム的進化]が重要になってくる。
ゴドフリー=スミスの〈ダーウィン空間〉の思考道具として優れた点は、
さまざまな種が進化する、
それぞれの様式間の関係を定位するのに役立つというだけでなく、
進化そのもの がさまざまな仕方で進化し、
その進化のそれぞれの様式間の関係を定位するのに役立つ、というところにある。
脱ダーウィン化した文化進化(バッハ)
そしてこの新たに付け加わった新奇性が、人類の存在論を豊かにし、それが今度は、
この新たに作られたさまざまな状況をすべて追尾し続けるための適応、
すなわち思考道具を促進するようなさらなる選択圧を提供するのである。
文化進化そのものもまた進化してきたのであり、
その進化は方向性のない「ランダムな」探索から出発し、
より効果的なデザイ ン過程としての、予見と目的を備え、
行為者たち―すなわち知的デザイナーたち――の理解力に依 存するデザイン過程に至る。
人間の理解力をもたらすには、莫大な数の思考道具を配置することが必要な のである。
文化進化は、それ自身の果実によって自らを脱ダーウィン化したのだ。
外見的イメージはいかにしてできるか
この眺望から見渡すとき、ウィルフリッド・セラーズの有益な用語を用いて
〈外見的イメージ〉と呼ばれてきたものを、
特殊な種類の人工物と見なすことが可能になる。
この人工物は、部分的には遺伝的に、また部分的には文化的にデザインされた、
ある格別に効果的なユーザーイリュージョンとして、
一生を通時間の制約に追われ続ける生物が、俊敏に動くことを支援する。
このユーザーイリュージョンはさまざまな(過剰) 単純化をうまく利用し、
それによって私たちがそこで生きる世界のイメージが創り出される。
このイメージ〔外見的イメージ〕は、
その外見的イメージの創発を説明するために立ち戻らなければならないものとしての
科学的イメージと、一定の緊張関係に立っている。
ここで私たちはまた別の革命的な推理の逆転に出会う。
この推理の逆転は、デイヴィド・ヒュームによる、
(ヒュームの帰納の問題)
私たちの因果性の知識に関する説明に登場する。
かくして私たちは人間の意識を、
一つのユーザーイリュージョンと見なすことができるよ うになる。
このユーザーイリュージョンはデカルト劇場の中に形成されたものではなく、
むしろ脳の表象活動と、それに結びついた、
その表象活動への適切な反応「次に何が生じるのか?」によって構成されたものである。
これで例のギャップ、あるいはデカルトの傷は埋められる。
とはいえこれは、この重要きわまる統合のただの素描に過ぎないことは明らかである。
私たちは、ダーウィン的視座の普遍性をひとたび適切に認めてしまえば、
個人として、また社会としての私たちの現在の状況が、
不完全であり、かつ、恒久的ではないということを自覚するようになる。
現在存在しているの はミームと遺伝子の共進化だけではない。
それに対応する、私たちの心のトップダウン式の推理〔理由づけ〕の能力と、
私たちの動物的な脳のボトムアップ式の
理解力なしの才能との共進化もまた 存在している。
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