チャンス・スペシフィック
2025/02/16 ICC「evala 現われる場 消滅する像」の「アーティスト・トーク evala vol.2 」にて
佐々木敦さんが「一時期言っててあんまりウケなかった」
一回性、複数性、鑑賞者などについて。当たり前と言えば当たり前のことな気がするけど、最近とても気になった話。
腑に落ちた…?というか昔から気になっていたことのような、これからも気にしていきたいなと…。
「チャンス・スペシフィック」の意味は良くわかっていないけど…。
要約できなそうなのでもし興味ある方いらっしゃれば…↓(01:39:40辺りの質問から関係あるお話されていると思います)
https://www.ntticc.or.jp/ja/hive/artist-talk/20250216/
https://www.youtube.com/live/QCO_IUxfx2M?si=Q4lEeiU8wnX-j4YY&t=6597
関連して考えたこと(けっこう最近考えていたこと)
全然まとまってないですが、もしかしたらしばらく書けない期間が延びてしまいそうなので…
ほぼほぼ自分のために書かせてもらってます…。(念のためのお断り)
表現の主体?(の重点?)をどこに置くか、「自分」(=作者)、「他者」(=表現対象?例えば取材対象?)、「鑑賞者」
最近観た作品の中で、「鑑賞者」にもかなり重点が置かれているのではないかと感じたものの印象が特に強く残っている。
関連して、最近「以前だったらただ退屈に感じてしまっていた表現」の見方・感じ方が変わった実感がある。
記録の羅列など、無造作に並べられたかのようにも見える膨大な情報量から鑑賞者に勝手に色々想像させる作品。
独自の編集、ルール、意図、はある。それによってそこからかなり自由に感じさせようとしている気がする。
関連して、いわゆる「物語」ではない語り方(以前であれば「まるでなにも物語っていないかのように見えていた」表現)
西澤諭志個展「1日外出券」
前田真二郎『日々”hibi”AUG』
音、時間軸、モンタージュなど、情報量が多い(というか鑑賞者への拘束力が強め?)分だけ、想像の自由度は減った印象(1日外出券と比較して)
だから表現として劣るとかではなく、別の何かが立ち上がっていたと感じています。言語化できてませんが…。
ペドロ・コスタ『ヴァンダの部屋』
バストリオ 『トーキョー・グッドモーニング』
↓こちらの頭出しの前後でかなり関係のあるお話されていると思いました。
vol.41 第27回『バストリオの間』TALK、の途中
上記4作は「長期間見つめる」というキーワードでつなげることができる気がしている。
清原惟『三月の光』『すべての夜を思いだす』他、全作品。
清原作品に限っては、「自由に」ではなく、詳細に説明しないからこそ感じさせられる「何か」(作品毎に違う)をしっかりと狙って行っている印象がある。
全作品を通して、恥ずかしながら正直どうしても「退屈」に感じてしまうシーンが多かったが、そのシーンを撮らなければならなかった必然性というか切実さは感じざるを得なかった。
特に構図、照明などのルックからそう思わされていた気がする。だけではないけど。
『ひとつのバガテル』(2015)武蔵野美術大学映像学科の卒業制作
確か撮影も清原さん自身(クレジットにあった記憶)。とにかく画が良くて驚きながら観た。
特集上映全作品観れた。3つ目に観た「短編4作品」プログラムの『三月の光』でその「退屈さ」というか「説明しない」からこそ表現できる(鑑賞者の「想像」が強く必要とされるような)ものがあるんだと心底思い知ったような感覚を得ました。
鑑賞当時の『三月の光』感想↓
描かない、物語らない(shogo_naka.iconに馴染みのあるやり方で)、ことによって物語っているということが良くわかった。
こちら側が、背景を想像しながら観なければ感じ取れない物語。
確かにその街(新幹線沿いの田畑の残る田舎)のその時代の風景、というか「人」が確かにフィルムに焼き付けられていた。
この作品で、他の作品への理解が深まったというか、清原監督の「語り方」が理解できたような気になった。
4つ目に観たプログラムで全作品観たうえで1/25結城秀勇さんとのトークを聴けたこともその感覚を強めた要因かなと。
上記の結城秀勇さんの文章を読み直してみて、昔の自分だったらこの文章を受け入れられなかっただろうなと思った。
昔、土居伸彰さんの文章がよく理解できず、作品について書くことを通して土居さん自身の語りたいこと語っているのではないかと感じてしまっていた。内容ほとんど憶えていないのですが「ひらのりょうさんの『パラダイス』評」とか。
いまは素晴らしいと思う。何かの折に Animationsとかツイッターの作品評を読み直す度。
どんなに客観的に観ようとしても、自分の観たいよう(観れるように)にしか観れないな、というようなことを最近よく思います。
念のため、結城さん、土居さんが客観的に観ていないように感じるという意味ではなく、めちゃくちゃ良く観ていると感じるけど、その良く観ることするためには何かしら自分事として捉える的なことが必要なんじゃないかというような感覚です。たぶん…。
これ、どなたかが言っていたことのような気がしてきました…。
関連して、最近、例えば全く関係があると知らなかった作家同士が作品を通じて繋がっていたりすることを知って嬉しくなることが頻発している。ただそこに勝手に意味(価値)を見出しすぎないように気をつけなきゃなと思いつつ。でもやっぱりどうしても嬉しく思ってしまう。
似たような感じで、最近自分があまりにもいろいろ連想してしまい過ぎではないかと気になっている
あんまり連想で繋ぎすぎても良くないのではと。
でもしばらくは、自分に引き寄せてしか考えられないそう。
その時の自分に見えるようしか見えないなと。できるだけ気をつけるとして。
関連して、新千歳2024で全然入り込めず、「退屈」だったけど寝ちゃわずに「観れた」作品
イヴ・ネッツハマー『Journey Of Shadows』
新千歳で「なぜか」「作品としてはこれが観れたから良かったな」と思った作品。もうほぼ憶えてないけど…。
やはりルックに凄く力があった。話の筋や暗喩はわからなかったけど(折笠さん、シーチェンさんは色々受け取っていた様子だった)、正確には「退屈」はしてなかったかも。わからないけど観ていられた。
ジュリアン・グランダー『Boys Go to Jupiter』
何が語られているのか(話の筋、時代背景、人物の心情など)は頭ではそれなりに理解できていたつもりだけど、「退屈」だった。
「退屈」が作者がいわゆるナラティブを作ることが初めてで慣れていないせいなのか、あえてなのか気になった。
いまはやっぱり「あえて」なんだろうなと…。
というか当時の自分には理解できなかった「語り方」がなされていただけなのではと…。
できれば観直したい…。
ルックはめちゃくちゃ好み。観れて良かった。
鑑賞中ずっとエドワード・ヤン『牯嶺街少年殺人事件』が頭にあった。
「退屈」つながり。
たしか町山智浩さん、「その「退屈さ」がその時代の空気を描くのに必要だった」
「そんなことある?」と「なるほどそうかもしれない…」を同時に思ったけど、今はちょっと違うんじゃないかという気がしている。のでいつか観直したいと思っている。
この作品のルックも、初見「え?全然ゆるくない?」と思ったけど、観終わる頃にはすっかりそのトーンが染み込んだ感覚があり「なるほど…」と思った記憶。 
いろいろ振り返ってみて、磯部真也さんの作品や、清原惟さんの作品を「観れた」のはこの作品(『Boys Go to Jupiter』)の鑑賞体験によって鍛えられた、耐性がついた、感があるかも…。強制(矯正)されたような感覚はなく自然に…。
最近「実験映画」の見方・感じ方も変わった実感がある。
磯部真也『dance』『EDEN』『For rest』『13』
牧野貴『The Intimate Stars』
居田伊佐雄『Far from the explosive form of fruit』
芹沢洋一郎 『合成人間のリハビリ』
前田真二郎『L』
以前感じていた「技術」寄りな印象よりも、もっとずっと感情によって制作、駆動されている感。
作品だけからもその印象は受け取ったけど、トーク付き、作品解説付き上映が多かったこともあり、制作動機や制作過程を知るとますますその印象が強まった。
磯部真也さんの特集上映がめちゃくちゃ良く、その後に他の作品を観たというのも大きそう。
そういえば新千歳2024で上映された『擬似的風光研究 -煙の地-』の大島慶太郎さんに伺ったお話も印象的。
shogo_naka.iconの「いつも何か「縛り」を設けて制作されているんですか?」という質問への回答
「縛り」ではなく、ファウンド・フッテージ(今作であれば「古い葉書」)への興味は制作動機そのもの
興味=思い入れくらいの温度感だったような。大島さんにとってとても魅力的な物なんだろうなと
大島さんとしては他のアニメーション作家とやっていることは変わらないつもり
↑というような回答をいただいた記憶。立ち話でメモもしてないので若干不安。
あと、「そもそもジャンル的には「実験映画」的な領域で活動されているという認識であってますか?スタン・ブラッケージや牧野貴さんみたいな?」という質問に対して、「そうです」とおっしゃっていた記憶。
その時もこの話を踏まえた上で観直してみたいと思ったし、磯部さんショックの後に観直してみたかったけど、恵比寿映像際での新千歳プログラム、スケジュールがカツカツで断念…。
https://youtu.be/7Yd2LOChw7A?si=y4YLGjgzVHmS6D69
VOYANT ⧸ ヴォワイアン 1995 dir. Rei Harakami
2025/03/01、イメージフォーラム・シネマテーク 前田真二郎×芹沢洋一郎「映像から見えるもの」A~Cプロ後のトークにて言及あり(1995年のイメージフォーラム周辺のシーンについてのトークの最後のトピックとして)
1995年前後、前田さん、芹沢さん、原神玲(レイ・ハラカミ)さん、交流があった。
芹沢さん「あなたの映像は好きだけど、音楽はよくわからないね」的な言葉に対して、ハラカミさん「芹沢さん、ぼくが音楽でやっていることは映画でやっていたことと同じなのにわからないかな~」的なことをライトな感じ(芹沢さんの話し方の印象から)で話されていたとのこと。
芹沢さん、ハラカミさん、「実験映画」「実験映像」作らなくなった一番の理由=観客の反応がなかったから
芹沢さんは実験映画を作らなかった期間も広告映像のディレクターとして活躍されていた
その期間中、イメージフォーラムなど、作品を観てはいた
作者がコントロールしきる作品に対する疑問(文脈忘れましたがメモしてました。おそらく三者共通して持たれていた問題意識)
ウェス・アンダーソンのような何でもコントロールしたいと思っていそうなタイプの監督でも、「偶然」を取り込んでいる、的な発言(『犬ヶ島』の時?)をしていたと思うけど(確か他の実写監督も)、それとは違うような、でも程度が違うだけで同じような…。
関係ありそうだと思ったポスト
「絵を描くことそのものが、出来上がりつつあるものとの応答で生成されるものなのだから、それは最初から意図され設計されきったものとは言えないのだ」という話と、「集団制作である以上、監督の意図が全てを支配し得ないのだ」ということは普通に別の話だな…
https://x.com/gnck/status/1926644652003696964
アニメーションにおける「偶然性」をめぐっては、ある種の集合的無意識や自動筆記と、いわゆる「自生性 spontaneity」の区別がなされないままに議論が交わされており、そのせいで噛み合っていないようにもみうけられる。
https://x.com/diecoo1025/status/1926622676585480506
絵を描いて物を作ること自体が「偶発性への期待」なんですよ。
ましてやそれで「演技」をする。
演技ってなあに? どこから来るの?
だから、アニメーションはおもしろい。
https://x.com/katabuchi_sunao/status/1926384101977739531
フィルム時代の「撮影の偶然性」を使った表現といえば、入射光とか波ガラスとか。いろいろありますね。
波ガラスなんて、セル2枚の間に透明なポマードを挟みこんで、拳骨でパンチして凹凸作ったりしてましたし。
「いいのできたねえ!」とかいいつつ。
https://x.com/katabuchi_sunao/status/1926390552255168543
牧野貴さんに伺ったお話
アブストラクトをやっている理由。観客にプロパガンダ的に確固たる1つのイメージを呼び起すのではなく、観客それぞれが別のものを観る自由を求めているから。←こちらのみ後述のトークイベントにて。表現の細部は不正確かもです
アメリカのディズニーが作った映像の大学(CalArts?違う名前をおっしゃっていたような…)では、学生にアニメーションも実験映画も分け隔てなく見せるようにしているのがとても良い(shogo_naka.iconの最近、実験映画に対する見方・感じ方が変わってきた感じがあり、観るのが楽しい、へのお返事)
「実験映画」という訳し方が良くない。「実験的な映画」というべき。
「実験的な映画」であっているか不安。すごく重要ところにも関わらず…
「実験映画」という言葉は禁止した方が良い。(前日に大阪で「実験的な映画」に関するシンポジウムがあり、そのように提言されてきたとのこと)
「実験映画」という言葉が壁を作ってしまっているというお話をされていたはず…。
実験的な事をしている映画は沢山あって(例えばゴダールを挙げられていた)、別に違うことやってない、と受け取りました
ブラッケージ的なものだけではない、ともおっしゃられていた。
海外だと「Experimental」だけでは伝わらない
定義が広いから。
で「Experimental」のどこなの?と聞かれ「アブストラクトです」までいう必要がある。
それくらい実験的であることは当たり前、と受け取りました…。
「実験映画」というものが独立してあるわけではなく、あくまで映画の一部、ということかなと。
前もどこかでおっしゃられていたことのような気がしてきました。
いつか昔とった色々なメモを読み返して統合したい…。牧野さん関連に限らず。忘れてるから。
以上、立ち話だったことと、緊張もあり、あまり正確性に自信がありません…。
2025/06/08、アーツ前橋で開催中(~6/22)の「石田尚志 絵と窓の間」展の関連イベント「③映像プログラム」のトークゲストとして来館されていた。
牧野さんがいらっしゃること知らなかった(急に決まったとのこと)
いままで展示や上映・トークを観て感銘を受けていたけど初めて話かけさせていただいた。10分くらい?
というか事前情報ほぼ調べずに行った。かなり昔から石田尚志さんの作品は気になっていて(ついに?アニメーションじゃなくなった?時(地面に水でライブペイントの映像作品)、なんかとても良いなと思った。2010頃?新美?)、展覧会自体見たかったし、黒坂圭太さんのツイートで、黒坂さんの上映とトークもあるということを知って行った。
想像以上に規模が大きな展示で驚いた。尺ものも多いのでちゃんと全部見るには3~4時間かかりそう。実際それくらいか、もっといた。
上映トークプログラム
事前申し込み必要だったの知らず。既に定員50名埋まっていた。
50名埋まることに驚いた。キャンセル待ちで入れていただくことができた。
作品セレクトとトーク素晴らしかった(時間足りてなかった感あったけど、圧縮感すごかった)
実験映画の歴史の厚みのようなもの(影響関係)とリスペクト(本当に好きなんだな感)を感じた。
初めて観る作品も多数あり。特に折笠良さんの「地面の底の病気の顔」(2017年)、美しかった。
石田さん牧野さん共作されているの知らなかった。「光の絵巻」(2011年)
山崎博さん、たしか自分がムサビの4年次の時に写真の教授?に就任されていた。実験映画撮られていたの知らなかった。←かなり恥ずかしい…。「HELIOGLAPHY」(1979年)、磯部真也作品に繋がるもの感じた。芹沢洋一郎 さんとも、たぶん手動の微動雲台?使用されているところが繋がる?
2025/06/06 バストリオ「セザンヌによろしく!」アフタートークにて
古川日出男さん、その日の出来事に対して本当に色々わかりやすく畳みかけるように言語化されていたトークの最後の方で、「普通の表現(例えば普通の演劇)では、作り手が作ったように感じてほしいもの。でもバストリオは観客一人一人それぞれ違うものを感じてほしいと思っている」そしてそれは、「この64分くらいを経験することによってしかわからないし、経験した人はなにかしらその人だけの何かを感じるはず」というようなお話が特に印象的でした。トーク全体を通して古川さんの様々な言語化に対して、バストリオの今野 裕一郎さんも、それらをいかに明確に意図して行っているかをお話されていた記憶。長くなるし、うまく書けなそうなので以上で…。
「観客一人一人それぞれ違うものを」的なお話は昔から土居伸彰さんがおっしゃっていたよな、ということをだんだんと思い出してきました。
本についてのイベントでそういう事を意図した作品(オブジェなど)を共同で作ったりもされていたはず。
TRANS BOOKS 2019の●. (Q / period)
最近「実験映画」「独立系アニメーション」はガンガン解説付きで観るのもありではないかと思うようになってきた。
「語り方」が独自なものが多く、今の自分ではそれを読み取ることにリソースが取られてしまい、語られていることのディテールなどをちゃんと見れていない気がする…?
単純に、解説してもらうと見えてくるものが多くなって良い、と思うようになってきた。
一方、初見はでできるだけネタばれなく、先入観なく作品と向き合いたい気持ちが強くある。
この気持ちがかなり強く、作品の具体的な感想をネットに書くのを躊躇してしまうところがある。
つまり鑑賞後の解説が良い?
関連して、トークや作品解説付き上映以外にも大変有難かった文章。
作品鑑賞後に、何が書かれているのか読むのが本当に楽しみです。
山村浩二さん「知られざるアニメーション」
佐々木友輔さん「風景のスクリーン・プラクティス」
佐々木さんのこちらの連載(とポスト)がなければ、西澤諭志さんの個展に足を運ばなかったどころか存在すら知らなかったと思います。
東京都写真美術館の「現在地のまなざし」と、清原惟さんの特集上映「 七つの合図、夢のなかで」、それぞれを観た後に佐々木さんの文章を読んだ経験がとても良かったので、西澤さんの個展に行ってみました。
他の文章(MVについてなど)も気になってますがまだ読めてません…。
でも事前説明が良い作品もあると思う。
前田真二郎『日々”hibi”AUG』
芹沢洋一郎 『合成人間のリハビリ』
あと、観返したかったら何回でも観返せるほうが良いと思う作品多い。
映画祭でしか観れないのなぜ?
選考委員は選考で何回も観た上で選んでたりする。
1回(映画祭中多くて2回)くらいしか観れない観客と選考委員で「別のものを観ている」のではないか感…。
これ、どなたかが言っていたような…
山村浩二さんのこちらの文章は影響の一つとしてありそう→http://yamamuraanimation.blog13.fc2.com/blog-entry-526.html
新千歳2024での田中さんと山村さんの「文法」「文体」のお話、恥ずかしながら当時は難解に感じていたのですが(なんとなく、そういう考え方があるんだと新鮮に思った気がするものの、自分に関係ある話に思えなかった感じかなと…)、というか今もなんとなくしかわかってない気がしますが、最近感じている、いままで理解できていなかった「語り方」が理解できるようになってきた気がするという感覚は、このお話を聞いた影響が大きい気がしています。かなり次元の異なる話だとは思うのですが、それまで自分は「語り方」という視点をあまり意識できていなかったような…、このお話を聞いてから意識に上りやすくなっているような…。
関係ありそうだと思ったポスト
作品は作家を超えた可能性を抱え持つというのは当然ではあるが、ただ多くの作品は可能性などろくに探求されず留保もされずごみのように適当に鑑賞され捨てられていくものなのであり――読み解くのに多くのあるいは特定の知識や経験や技術やコストが必要だとしてそれを持ったり払えたりする人体自体がごく少なかったりするのでありそれらを鑑賞者に求めると「エリート志向だ」とか罵られる――結局は「作品だけでわかるようになってないのが悪い(作品のなかにあらゆる導線や説明を盛り込むべき)」という過剰な消費者サービスを求める言説へと容易に転がりやすい。そしてそれは一周まわって作品なる形式にこそ賭けられていたもの――作家を超えて生じうる過激な可能性の余地――を作品から奪うことにもなっていく。
ゆえに作家は、作品を作品として逃がすために――導線まみれにしないために――その使い方(可能性の掘り方)を作家自身が鑑賞者に向けて事前事後に説明したり、鑑賞者と作家がともに探求したりするといったかたちを取り始める。こうしてめぐりめぐって(「作品は作家を超えた可能性を抱え持つ」といった言説の側から)作家の権力が復活する。
https://x.com/hiroki_yamamoto/status/1899752440045637897
こうした「作家の復活」を前提に、私はいぬのせなか座で、作品だけを提示するのでも、作品そのものをわかりやすくするのでもなく、「限界までハードな仕方で作られた作品を、複数人で分析したり自ら批評を提示したり二次創作的に別の主体の別の制作へと転用させていく」ことを重視する方向性をとっていた。つまりそのようにして、作品制作がもつポテンシャルを保存しつつその価値を社会的に提示しようとしてきたわけだ。あわせて作家なる立場を作品制作そのものと動的に絡み合い変容していくものとして捉えるために、私小説やフェイクドキュメンタリーなどといった「作品内外が交錯する表現方法」を積極的に重視してきた。
これらの手続きを通じてこそ、作家の権力を解体し、作品の可能性を維持できる――言い換えれば単に作家なる存在を否定してももはや機能しないだろう――、そういう考えなのだった。
それから10年が経ち、いまの気分としては、「まあそういうやりかたをとっても結局は作家の権力性の重視につながる傾向に抵抗しきれないところはある」といったところだ。上に書いたようなあれこれを意図として持っていたとしても、伝わらず、「なんか独自の言語を使って作品側に顔を出しまくる、エリート主義的な集団・界隈・作家だ」と感じるひとは大量にいるし、そもそも作品(制作)が持つポテンシャルみたいなものに関心を持たないひとのほうが圧倒的多数なのだ。
じゃあなんら意味がなかったかというとそうとも思わないわけで。ただとりあえずは、あらためて作品なるものを作家から切り離し固有に肯定する方法を再度発見する必要があるだろうなという気持ちではある。
https://x.com/hiroki_yamamoto/status/1899760067261636903
あと勘違いかもですが、関連ありそうな気がしたポストです…。
若い頃は思想哲学系の本に書いてあることがある種の知的なパズルに見えて、ともすると自分の頭の良さを証明するための道具みたいな扱いになりがちなんだけど、年をとると自分の生活の側から少し理解できそうな感じもするのよね。記号接地ならぬ実存接地というか… 気のせいかもだけど
https://x.com/teramat/status/1896588121049038904
中年になるってことは多分、自分もいつか死んじゃうんだなってことを周りの人たちの人生から学んで、受け入れ始めることだろうか。死にたいとかじゃなくて、もうちょい前向きな意味で。
https://x.com/ogawads/status/1896578365051842899
見方、感じ方が変わった感覚、例えば学生時代の自分に伝えようとしても伝えられなそう。
逆に?その「語り方」を理解している人は若い内からその見方、感じ方で作っている(し見たり話したり、例えば清原惟さん)。
『TAR/ター』観てないけど、関連を感じたポスト。
『TAR/ター』は、多くのアメリカ映画とは異なって物語には省略が多く、その道徳的メッセージを観客に必ずしもわかりやすく「説明」していない。例えば尊大な天才指揮者による権力の濫用と失墜という「解釈」を観客が想定しても、そこから外れたり逆らう細部をいくつも見いだすことが出来る。
https://x.com/one_quus_one/status/1898172493128778052
こうした作品を楽しむには、観客の積極的な関与が必要で、例えば様々なモチーフを見つけ出し、それらをひとまず分類・整理してみることが大事だと思う。
https://x.com/one_quus_one/status/1898173206126903531
ある人達にはとっては当たりのことなんだろうなと想像しています。
自分は武蔵美の映像学科卒にも関わらず、「いまさら」こういうことを考えている感。
在学中、同級生と「作品」「制作」について話したりした記憶がほとんどない。
いくつか理由は思い浮かぶけど、意識、感覚が違い過ぎた?
確か大学四年の時、「映画」を制作している同級生数名に頼んで、「観ておくべき映画リスト」を作ってもらった。
何かの集まりでその場でみんなで話し合いながら手書きでどんどん書いていってもらった。
確か当時、色々な意味で「観ているもの」が違う気がして頼んだ記憶。
当時は卒制・就活などで忙しくて&理解できなそうな(がんばって観ないといけなそうな)タイプの作品に思えて全然観れなかった。
まだどこかにそのリストを持っているはず。
ペドロ・コスタ『ヴァンダの部屋』もそのリストにあったはず。
モニター(ディスプレイ)の色調整について、に書きかけていることが®気になっていたこともあるけど、確かこのリストに入っていた記憶があり、観に行った理由としてはそれも大きい。
観に行って良かった。
当時観ててもたぶんわからなかった。(冒頭だけ記憶にあった気がしたので観ようとして挫折したのかも…)
なのでリストにあったはずの他の作品(未見、理解できなかった、挫折した、記憶にないなど)、あと勝手に似たような印象をもってしまって観れずにいた作品など、そのうち観たい、観直したい…。
タル・ベーラ『ヴェルクマイスター・ハーモニー』
ヴェルナー・ヘルツォーク『フィツカラルド』
アンドレイ・タルコフスキー『惑星ソラリス』 『ストーカー』『ノスタルジア』 『サクリファイス』
デイヴィッド・リンチ『マルホランド・ドライブ』
ジム・ジャームッシュ『ストレンジャー・ザン・パラダイス』『パーマネント・バケーション』
ヴィム・ヴェンダース『まわり道』『さすらい 』『パリ、テキサス 』『ベルリン・天使の詩 』
アキ・カウリスマキ『浮き雲』
アピチャッポン・ウィーラセタクン 『ブンミおじさんの森』
ミニシアター全盛期の日本でよく知られたカウリスマキやヴェンダース、ジャームッシュらの映画にはある共通したナイーブさがあり、それは文脈次第で異なる意味合いに受け止められたり実際機能したりしますが、私はそのナイーブさそのものにおいて強く肯定し擁護し続けたいと一人で勝手に思ってます。
https://x.com/one_quus_one/status/1898514768383840262
「わからなさ」との距離を長年かけて味わう楽しみのために、「わかりやすさ」だけでなく、なるべく色々な種類の「わからなさ」に出会えるように気をつけて過ごしてる。
https://x.com/4mimimizu/status/1931990045923450946
最初は聴いてもよくわからなかった音楽を諦めずに聴き続けると、気づいたらそれがあなたにとって一生ものの音楽になっていたりするから、自分なんて曖昧なもので、価値判断なんて流動的だということに気づくと、一気に人生が楽しくなるんですよ。もちろん好きだったものが嫌いになることもあるけど。
https://x.com/lovesydbarrett/status/1953484322280779874
これ本当にそうな気がする 音楽も絵画と同じ様な楽しみ方したいよね
https://x.com/NekoToSobaSuki/status/1953486129749237820
付け加えるとですね、よくわからなかったものがそのままずっとわからない(受け入れ難い)可能性もあるわけだけど、自分にとって素晴らしいものが、そのすぐ隣にあるかもしれない、ということ。わからなくても興味を持ち続けていれば、少なくとも世界を拡げるきっかけになる可能性が高い。
https://x.com/shin1toku/status/1953594216866885786
とてもよくわかる。逆に、一聴した瞬間(映像だと序盤から(ファーストカットくらいからの場合も))、ぐっと引き込まれる作品もあって、自分にとっていま大切な作品はどっちか両極端な気がする。
両極端、印象が強いから思い出しやすいだけで、そうでもないかも…。考えてみれば色々なパターンあるなと…。