チャンス・スペシフィック
佐々木敦さんが「一時期言っててあんまりウケなかった」 一回性、複数性、鑑賞者などについて。当たり前と言えば当たり前のことな気がするけど、最近とても気になった話。
腑に落ちた…?というか昔から気になっていたことのような、これからも気にしていきたいなと…。
要約できなそうなのでもし興味ある方いらっしゃれば…↓(01:39:40辺りの質問から関係あるお話されていると思います)
関連して考えたこと(けっこう最近考えていたこと)
全然まとまってないですが、もしかしたらしばらく書けない期間が延びてしまいそうなので…
ほぼほぼ自分のために書かせてもらってます…。(念のためのお断り)
表現の主体?(の重点?)をどこに置くか、「自分」(=作者)、「他者」(=表現対象?例えば取材対象?)、「鑑賞者」
最近観た作品の中で、「鑑賞者」にもかなり重点が置かれているのではないかと感じたものの印象が特に強く残っている。
関連して、最近「以前だったらただ退屈に感じてしまっていた表現」の見方・感じ方が変わった実感がある。
記録の羅列など、無造作に並べられたかのようにも見える膨大な情報量から鑑賞者に勝手に色々想像させる作品。
独自の編集、ルール、意図、はある。それによってそこからかなり自由に感じさせようとしている気がする。
関連して、いわゆる「物語」ではない語り方(以前であれば「まるでなにも物語っていないかのように見えていた」表現)
音、時間軸、モンタージュなど、情報量が多い(というか鑑賞者への拘束力が強め?)分だけ、想像の自由度は減った印象(1日外出券と比較して)
だから表現として劣るとかではなく、別の何かが立ち上がっていたと感じています。言語化できてませんが…。
↓こちらの頭出しの前後でかなり関係のあるお話されていると思いました。
上記4作は「長期間見つめる」というキーワードでつなげることができる気がしている。
清原惟『三月の光』『すべての夜を思いだす』他、全作品。 清原作品に限っては、「自由に」ではなく、詳細に説明しないからこそ感じさせられる「何か」(作品毎に違う)をしっかりと狙って行っている印象がある。
全作品を通して、恥ずかしながら正直どうしても「退屈」に感じてしまうシーンが多かったが、そのシーンを撮らなければならなかった必然性というか切実さは感じざるを得なかった。
特に構図、照明などのルックからそう思わされていた気がする。だけではないけど。
『ひとつのバガテル』(2015)武蔵野美術大学映像学科の卒業制作
確か撮影も清原さん自身(クレジットにあった記憶)。とにかく画が良くて驚きながら観た。
特集上映全作品観れた。3つ目に観た「短編4作品」プログラムの『三月の光』でその「退屈さ」というか「説明しない」からこそ表現できる(鑑賞者の「想像」が強く必要とされるような)ものがあるんだと心底思い知ったような感覚を得ました。
鑑賞当時の『三月の光』感想↓
描かない、物語らない(shogo_naka.iconに馴染みのあるやり方で)、ことによって物語っているということが良くわかった。
こちら側が、背景を想像しながら観なければ感じ取れない物語。
確かにその街(新幹線沿いの田畑の残る田舎)のその時代の風景、というか「人」が確かにフィルムに焼き付けられていた。
この作品で、他の作品への理解が深まったというか、清原監督の「語り方」が理解できたような気になった。
上記の結城秀勇さんの文章を読み直してみて、昔の自分だったらこの文章を受け入れられなかっただろうなと思った。
昔、土居伸彰さんの文章がよく理解できず、作品について書くことを通して土居さん自身の語りたいこと語っているのではないかと感じてしまっていた。内容ほとんど憶えていないのですが「ひらのりょうさんの『パラダイス』評」とか。
いまは素晴らしいと思う。何かの折に Animationsとかツイッターの作品評を読み直す度。
どんなに客観的に観ようとしても、自分の観たいよう(観れるように)にしか観れないな、というようなことを最近よく思います。
念のため、結城さん、土居さんが客観的に観ていないように感じるという意味ではなく、めちゃくちゃ良く観ていると感じるけど、その良く観ることするためには何かしら自分事として捉える的なことが必要なんじゃないかというような感覚です。たぶん…。
これ、どなたかが言っていたことのような気がしてきました…。
関連して、最近、例えば全く関係があると知らなかった作家同士が作品を通じて繋がっていたりすることを知って嬉しくなることが頻発している。ただそこに勝手に意味(価値)を見出しすぎないように気をつけなきゃなと思いつつ。でもやっぱりどうしても嬉しく思ってしまう。
似たような感じで、最近自分があまりにもいろいろ連想してしまい過ぎではないかと気になっている
あんまり連想で繋ぎすぎても良くないのではと。
でもしばらくは、自分に引き寄せてしか考えられないそう。
その時の自分に見えるようしか見えないなと。できるだけ気をつけるとして。
関連して、新千歳2024で全然入り込めず、「退屈」だったけど寝ちゃわずに「観れた」作品
新千歳で「なぜか」「作品としてはこれが観れたから良かったな」と思った作品。もうほぼ憶えてないけど…。
やはりルックに凄く力があった。話の筋や暗喩はわからなかったけど(折笠さん、シーチェンさんは色々受け取っていた様子だった)、正確には「退屈」はしてなかったかも。わからないけど観ていられた。
何が語られているのか(話の筋、時代背景、人物の心情など)は頭ではそれなりに理解できていたつもりだけど、「退屈」だった。
「退屈」が作者がいわゆるナラティブを作ることが初めてで慣れていないせいなのか、あえてなのか気になった。
いまはやっぱり「あえて」なんだろうなと…。
というか当時の自分には理解できなかった「語り方」がなされていただけなのではと…。
できれば観直したい…。
ルックはめちゃくちゃ好み。観れて良かった。
鑑賞中ずっとエドワード・ヤン『牯嶺街少年殺人事件』が頭にあった。
「退屈」つながり。
たしか町山智浩さん、「その「退屈さ」がその時代の空気を描くのに必要だった」
「そんなことある?」と「なるほどそうかもしれない…」を同時に思ったけど、今はちょっと違うんじゃないかという気がしている。のでいつか観直したいと思っている。
この作品のルックも、初見「え?全然ゆるくない?」と思ったけど、観終わる頃にはすっかりそのトーンが染み込んだ感覚があり「なるほど…」と思った記憶。
いろいろ振り返ってみて、磯部真也さんの作品や、清原惟さんの作品を「観れた」のはこの作品(『Boys Go to Jupiter』)の鑑賞体験によって鍛えられた、耐性がついた、感があるかも…。強制(矯正)されたような感覚はなく自然に…。 最近「実験映画」の見方・感じ方も変わった実感がある。
磯部真也『dance』『EDEN』『For rest』『13』 居田伊佐雄『Far from the explosive form of fruit』 以前感じていた「技術」寄りな印象よりも、もっとずっと感情によって制作、駆動されている感。
作品だけからもその印象は受け取ったけど、トーク付き、作品解説付き上映が多かったこともあり、制作動機や制作過程を知るとますますその印象が強まった。
磯部真也さんの特集上映がめちゃくちゃ良く、その後に他の作品を観たというのも大きそう。
そういえば新千歳2024で上映された『擬似的風光研究 -煙の地-』の大島慶太郎さんに伺ったお話も印象的。 shogo_naka.iconの「いつも何か「縛り」を設けて制作されているんですか?」という質問への回答
「縛り」ではなく、ファウンド・フッテージ(今作であれば「古い葉書」)への興味は制作動機そのもの
興味=思い入れくらいの温度感だったような。大島さんとってとても魅力的な物なんだろうなと
大島さんとしては他のアニメーション作家とやっていることは変わらないつもり
↑というような回答をいただいた記憶。立ち話でメモもしてないので若干不安。
あと、「そもそもジャンル的には「実験映画」的な領域で活動されているという認識であってますか?スタン・ブラッケージや牧野貴さんみたいな?」という質問に対して、「そうです」とおっしゃっていた記憶。
その時もこの話を踏まえた上で観直してみたいと思ったし、磯部さんショックの後に観直してみたかったけど、恵比寿映像際での新千歳プログラム、スケジュールがカツカツで断念…。
https://youtu.be/7Yd2LOChw7A?si=y4YLGjgzVHmS6D69
VOYANT ⧸ ヴォワイアン 1995 dir. Rei Harakami
1995年前後、前田さん、芹沢さん、原神玲(レイ・ハラカミ)さん、交流があった。 芹沢さん「あなたの映像は好きだけど、音楽はよくわからないね」的な言葉に対して、ハラカミさん「芹沢さん、ぼくが音楽でやっていることは映画でやっていたことと同じなのにわからないかな~」的なことをライトな感じ(芹沢さんの話し方の印象から)で話されていたとのこと。
芹沢さん、ハラカミさん、「実験映画」「実験映像」作らなくなった一番の理由=観客の反応がなかったから
芹沢さんは実験映画を作らなかった期間も広告映像のディレクターとして活躍されていた
その期間中、イメージフォーラムなど、作品を観てはいた
作者がコントロールしきる作品に対する疑問(文脈忘れましたがメモしてました。おそらく三者共通して持たれていた問題意識)
ウェス・アンダーソンのような何でもコントロールしたいと思っていそうなタイプの監督でも、「偶然」を取り込んでいる、的な発言(『犬ヶ島』の時?)をしていたと思うけど(確か他の実写監督も)、それとは違うような、でも程度が違うだけで同じような…。 最近「実験映画」「独立系アニメーション」はガンガン解説付きで観るのもありではないかと思うようになってきた。
「語り方」が独自なものが多く、今の自分ではそれを読み取ることにリソースが取られてしまい、語られていることのディテールなどをちゃんと見れていない気がする…?
単純に、解説してもらうと見えてくるものが多くなって良い、と思うようになってきた。
一方、初見はでできるだけネタばれなく、先入観なく作品と向き合いたい気持ちが強くある。
この気持ちがかなり強く、作品の具体的な感想をネットに書くのを躊躇してしまうところがある。
つまり鑑賞後の解説が良い?
関連して、トークや作品解説付き上映以外にも大変有難かった文章。
作品鑑賞後に、何が書かれているのか読むのが本当に楽しみです。
佐々木さんのこちらの連載(とポスト)がなければ、西澤諭志さんの個展に足を運ばなかったどころか存在すら知らなかったと思います。 東京都写真美術館の「現在地のまなざし」と、清原惟さんの特集上映「 七つの合図、夢のなかで」、それぞれを観た後に佐々木さんの文章を読んだ経験がとても良かったので、西澤さんの個展に行ってみました。
他の文章(MVについてなど)も気になってますがまだ読めてません…。
でも事前説明が良い作品もあると思う。
あと、観返したかったら何回でも観返せるほうが良いと思う作品多い。
映画祭でしか観れないのなぜ?
選考委員は選考で何回も観た上で選んでたりする。
1回(映画祭中多くて2回)くらいしか観れない観客と選考委員で「別のものを観ている」のではないか感…。
これ、どなたかが言っていたような…
新千歳2024での田中さんと山村さんの「文法」「文体」のお話、恥ずかしながら当時は難解に感じていたのですが(なんとなく、そういう考え方があるんだと新鮮に思った気がするものの、自分に関係ある話に思えなかった感じかなと…)、というか今もなんとなくしかわかってない気がしますが、最近感じている、いままで理解できていなかった「語り方」が理解できるようになってきた気がするという感覚は、このお話を聞いた影響が大きい気がしています。かなり次元の異なる話だとは思うのですが、それまで自分は「語り方」という視点をあまり意識できていなかったような…、このお話を聞いてから意識に上りやすくなっているような…。 あと勘違いかもですが、関連ありそうな気がしたポストです…。
若い頃は思想哲学系の本に書いてあることがある種の知的なパズルに見えて、ともすると自分の頭の良さを証明するための道具みたいな扱いになりがちなんだけど、年をとると自分の生活の側から少し理解できそうな感じもするのよね。記号接地ならぬ実存接地というか… 気のせいかもだけど
中年になるってことは多分、自分もいつか死んじゃうんだなってことを周りの人たちの人生から学んで、受け入れ始めることだろうか。死にたいとかじゃなくて、もうちょい前向きな意味で。
見方、感じ方が変わった感覚、例えば学生時代の自分に伝えようとしても伝えられなそう。
逆に?その「語り方」を理解している人は若い内からその見方、感じ方で作っている(し見たり話したり、例えば清原惟さん)。 『TAR/ター』観てないけど、関連を感じたポスト。
『TAR/ター』は、多くのアメリカ映画とは異なって物語には省略が多く、その道徳的メッセージを観客に必ずしもわかりやすく「説明」していない。例えば尊大な天才指揮者による権力の濫用と失墜という「解釈」を観客が想定しても、そこから外れたり逆らう細部をいくつも見いだすことが出来る。
こうした作品を楽しむには、観客の積極的な関与が必要で、例えば様々なモチーフを見つけ出し、それらをひとまず分類・整理してみることが大事だと思う。
ある人達にはとっては当たりのことなんだろうなと想像しています。
自分は武蔵美の映像学科卒にも関わらず、「いまさら」こういうことを考えている感。
在学中、同級生と「作品」「制作」について話したりした記憶がほとんどない。
いくつか理由は思い浮かぶけど、意識、感覚が違い過ぎた?
確か大学四年の時、「映画」を制作している同級生数名に頼んで、「観ておくべき映画リスト」を作ってもらった。
何かの集まりでその場でみんなで話し合いながら手書きでどんどん書いていってもらった。
確か当時、色々な意味で「観ているもの」が違う気がして頼んだ記憶。
当時は卒制・就活などで忙しくて&理解できなそうな(がんばって観ないといけなそうな)タイプの作品に思えて全然観れなかった。
まだどこかにそのリストを持っているはず。
観に行って良かった。
当時観ててもたぶんわからなかった。(冒頭だけ記憶にあった気がしたので観ようとして挫折したのかも…)
なのでリストにあったはずの他の作品(未見、理解できなかった、挫折した、記憶にないなど)、あと勝手に似たような印象をもってしまって観れずにいた作品など、そのうち観たい、観直したい…。
タル・ベーラ『ヴェルクマイスター・ハーモニー』
ヴェルナー・ヘルツォーク『フィツカラルド』
アンドレイ・タルコフスキー『惑星ソラリス』 『ストーカー』『ノスタルジア』 『サクリファイス』
デイヴィッド・リンチ『マルホランド・ドライブ』
ジム・ジャームッシュ『ストレンジャー・ザン・パラダイス』『パーマネント・バケーション』
ヴィム・ヴェンダース『まわり道』『さすらい 』『パリ、テキサス 』『ベルリン・天使の詩 』
アキ・カウリスマキ『浮き雲』
アピチャッポン・ウィーラセタクン 『ブンミおじさんの森』
ミニシアター全盛期の日本でよく知られたカウリスマキやヴェンダース、ジャームッシュらの映画にはある共通したナイーブさがあり、それは文脈次第で異なる意味合いに受け止められたり実際機能したりしますが、私はそのナイーブさそのものにおいて強く肯定し擁護し続けたいと一人で勝手に思ってます。